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佐藤弘夫・東北大学大学院教授の
日蓮大聖人論(主として法華真言未分化論)を再批判する

◆私は追撃の手を緩めるべきではなかった

佐藤弘夫・東北大学大学院教授の著した『日蓮』(ミネルヴァ 書房)の日蓮大聖人論については、2004年12月3日に発行した自著『日蓮 大聖人と最蓮房 師弟不二の契約』において徹底的に批判をしておいた。その批判文は自著『日蓮大聖人と最蓮房 師弟不二の契約』をインターネットに公開する際も、掲載した。

数年ばかり、インターネット上に同氏の日蓮大聖人論を批判する同文を公開したが、佐藤教授も将来のあることだし、あまり執拗にするのもどうかと思い、数年後、インターネットでの公開を取りやめた。ところが、こうした私の判断が間違いであったことが、よくわかった。

魯迅は「打落水狗」と言ったが、たしかにそうだ。私は徹底してやるべきだったのだ。

同氏の戯論は息を吹き返し、またぞろ真実に反した日蓮大聖人論がはびこり始めている。同氏の本質的なことからすれば当然のことなのだろうが、私が批判した法華真言未分化論(日蓮大聖人は立宗時において法華と真言の勝劣について明らかな見識がなく、法華よりも真言のほうに心を寄せていたという論)についての持論の撤回、あるいは自己批判などはされることもなく今日まできている。つまり、同氏はいまだにこの論を腹蔵しているのである。この視点から同氏は日蓮大聖人論をいまだ展開しているのだ。

◆「法華独勝」の立場に到達せず「立正安国論」を著されたとは?

同氏が2008年6月10日付で著した『日蓮「立正安国論」』(講談社学術文庫) の中には次のように記されている。

「一二六〇年の段階で、日蓮は確かに天台宗の伝統であった〈法華至高〉の立場に到達していた。ただし『法華経』だけを唯一の正法とする〈法華独勝〉にまで行き着いていたかといえば、それは疑問である。まして、『法華経』以外のすべての教行を無用の長物として否定する論理=〈選択主義〉の確立は、佐渡流罪期を待たなければならなかった。」

1260年は文応元年、つまり「立正安国論」上呈の年である。

いつものことながら、同氏の文は何を言っているのかわからないところがある。「法華至高」と「法華独勝」の概念規定がないから批判する側もむずかしさが残るが、とどのつまり同氏の言わんとするところは、この「立正安国論」上呈の時にあっても大聖人は、

「『法華経』だけを唯一の正法とする〈法華独勝〉にまで行き着いていたかといえば、それは疑問である」

というものであり、

「『法華経』以外のすべての教行を無用の長物として否定する論理=〈選択主義〉の確立は、佐渡流罪期を待たなければならなかった」

というのである。
これは、明らかな間違いである。

◆日蓮大聖人の悟達は16歳の時であったと見るのが正しい

日蓮大聖人が法華最勝の思いに立たれ、自解仏乗されたのは16歳の時である。日蓮大聖人のご一生を考える場合、最も重要なその視座をはずして、あれこれと日蓮大聖人のことを論評しても詮なきことである。ましてや、日蓮大聖人の流類であると自認する者は、日蓮大聖人の悟達が16歳の安房・清澄寺にいらした時であるという最も重要な基点をはずしてはならない。

その基点が信仰心の中に劃然としていれば、佐藤弘夫氏のいうような佐渡流罪後に「法華独勝」の自覚に立ったなどという妄論に心を寄せることなどないのである。日蓮大聖人は十六歳の時の清澄寺における自解仏乗について、虚空蔵菩薩に仮託して自ら次のように仰せになっている。

「予はかつしろしめされて候がごとく幼少の時より学文に心をかけし上・大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て日本第一の智者となし給へ、十二のとしより此の願を立つ其の所願に子細あり今くはしく・のせがたし」(破良観等御書)

「日蓮は安房の国・東条の郷・清澄山の住人なり、幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く日本第一の智者となし給へと云云、虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給いて明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給いき、其のしるしにや日本国の八宗並びに禅宗・念仏宗等の大綱・粗伺ひ侍りぬ」(善無畏三蔵抄)

「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき、日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん明星の如くなる大宝珠を給いて左の袖にうけとり候いし故に一切経を見候いしかば八宗並びに一切経の勝劣粗是を知りぬ」(清澄寺大衆中)

◆戸田城聖会長は「御年十六の時」に悟達と断言されている

戸田城聖・創価学会第二代会長は、日蓮大聖人の悟達について、「清澄寺大衆中」の講義の中で次のように話されている。

「『生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき』
ここが問題です。これは仏法上の大問題です。私は大聖人様が、どこで南無妙法蓮華経を御悟りあそばされたかといろいろ考えてみました。ふつうならば比叡山から帰り、三十二歳の時、四月二十八日に清澄寺で初めて南無妙法蓮華経とお唱えになった時ではないかと。あるいは比叡山に登られたその時ではないかと。こういうふうにだれしも考える。仏教学者は、比叡山で勉強して、そうして南無妙法蓮華経の極理をそこでおそわってきたのだろうぐらいに、みんな、ふつうはそう考えています。だが私はそうは考えないのです。どこで大聖人様が、妙法蓮華経の極理を体得せられたかということを、さんざん考えてみたのです。どうしても、この虚空蔵菩薩の御前でなければとしか思えないのです。御年十六の時です。私などは、仏法のことを少しわかったのが四十いくつ。仏様は御年十六の時に、虚空蔵菩薩の御前で、そこで初めて法華経の極理、妙法蓮華経の極理を体得されたのではないかと思うのです。それがいまの御言葉です」(昭和31年12月14日 東京・豊島公会堂 『戸田城聖全集』第7巻所収480ページ ※下線筆者)

また昭和32年1月1日の「年頭のことば」においても、次のように述べられている。

われらが御本仏日蓮大聖人は、御年十六歳にして人類救済の大願に目覚められ、かつまた宇宙の哲理をお悟りあそばされて以来、三十二の御年まで、その信念の確証を研鑚あそばされて後、御年六十一歳の御涅槃の日まで、若きときの希望、若きときの夢の一つも離すことなく、生活に打ちたてられたことは、じつにすさまじい大殿堂を見るがごときものではないか。
新年の初頭にあたって、吾人が同志にのぞむものは、老いたるにもせよ、若きにもせよ、生活に確信ある希望をもち、その希望のなかに生きぬいてもらわなければならないことである。いうまでもなく、その希望に生きぬく生命力は、御本仏日蓮大聖人の御生命である人法一箇の御本尊にあることを銘記すべきであろう。
おのれも大地に足を踏みしめ、はなやかな希望に生きるとともに、世の人たちをも同じく大地に足を踏みしめさせて、人生に晴れやかな希望をもたせようではないか」(『戸田城聖全集』第3巻所収292ページ ※下線筆者)

佐藤弘夫氏の日蓮大聖人論は、身延派と同じで立宗後、徐々に境涯を開いていったとする修行僧としての日蓮大菩薩論である。佐渡に至ってやっと「法華独勝」の自覚に立ったとは笑止である。同氏の論がいかに浅薄なものであるかは、以下に再掲する「『教授』の『学説』を批判する」を一読してもらえば、誰人もそれを確認することができるだろう。


佐藤弘夫・東北大学大学院教授の
学説(主として法華真言未分化論)を批判する

(北林芳典著「日蓮大聖人と最蓮房」の別巻「註解」所収)

2004年12月3日

東北大学大学院文学研究科教授(日本思想史専攻)である佐藤弘夫氏の著した『偽書の精神史』(講談社刊)及び『日蓮』(ミネルヴァ書房刊)を読んだ。これらの著書は、日蓮大聖人像を大きく歪めるものであり、日蓮大聖人の教法を信ずる者として、これを「学説」と認めることは到底でき得ないことである。両著は「学説」の域を越えて、自己の日蓮像を他者に糊着させようとしている感すらある。よって「置不可責」の義に則り、これを批判する。
ただし、佐藤氏個人への批判は避けたい。あくまでも同氏の言うところの「学説」を批判するのであるから、これより以降、佐藤氏を「教授」と呼称し、この文が佐藤氏への個人攻撃であるかのような疑念を持たれることを回避したい。
なお、引用文の下に引いた傍線は、著者が読者の注意を喚起するために引いたものである。

一、「教授」の『日蓮』(前出)に沿って、その「学説」を破していく。「教授」は同書の中で、日蓮大聖人の次に示す二つの御書を引用している。
「予はかつしろしめされ候がごとく幼少の時より学文に心をかけし上・大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て日本第一の智者となし給へ、十二のとしより此の願を立つ」(「破良観等御書」全一二九二)
「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき、日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん明星の如くなる大宝珠を給いて右の袖にうけとり候いし故に一切経を見候いしかば八宗並びに一切経の勝劣粗是を知りぬ」(「清澄寺大衆中」全八九三)
これらの御書を示して「教授」云く。
「青少年期の日蓮は、虚空中に仏菩薩の姿をたびたび幻視していたようである。入寺当時の日蓮は、学問で頂点を極めたいという知的な野心をもっていた。だがそれだけではない。たびたび神秘体験を繰り返すような、強い霊的資質を備えた少年でもあったのである」(佐藤弘夫著『日蓮』一五頁)

「教授」は学問的未熟の故に、この御書を曲解している。「教授」は御書を読まずに我見を「幻視」している。「教授」は妄想することにより、神秘体験をしている。「教授」は「霊的資質を備えた少年」である。

二、「教授」は「戒体即身成仏義」について、次のように述べている。
「私が『戒体即身成仏義』を真撰とみなしていいと考える理由は、これをあえて偽作しなければならない理由がみつからないことである。日蓮に仮託された偽書は、そのほとんどが日蓮没後に門流によって創作されたために派閥色が強く、また法華至上を正面に掲げて諸宗を批判するものが多い。それに対しこの書は、法華に対する真言の優位をはっきりと打ち出している。もしこれが偽書であるとすれば、だれがなんの目的で創作したのかが説明できない。逆にそうした学風は、慈覚開基とされる清澄寺のそれにぴったりと合致するのである」(『同』一九頁)

「教授」は「戒体即身成仏義」が読めない。もっとも七百年間、多くの者が読めなかったのだから仕方がない。最高権威である東大教授であった故・姉崎正治氏も、「それまで習った『真言的天台の学』をまとめた『卒業論文』のようなものと評している」と「教授」が紹介しているのだから、仕方ないのかもしれない。「教授」に姉崎氏以上の資質を求めることは到底無理だ。しかし、「教授」がここに書いている論理がよくない。
「偽作しなければならない理由がみつからない」という理由で、「真撰」とみなすことは「学説」といえるのだろうか。
なお、同御書を「法華に対する真言の優位をはっきりと打ち出している」ものとして読むのは、力量のなさの故である。その自らの力量の無さをテコにして、妄説の支えにすることは許されない。慈覚が始めた「天台真言宗」のようになっては甚だしく困る。慈覚は誤りの混乱の源である。「教授」は学界においては新進気鋭の国立大学教授として、未来を嘱望されている。よって「教授」の「学説」が、学界の「定説」となり、さまざまな「学説」の源となることを忌むのである。

三、「教授」云く。
「そうした修行形態を支えた論理が、念仏と法華・真言が本質的には等しいという理念だった。日蓮はのちに『題目弥陀名号勝劣事』という著作の中で、かつて幼少の時分、『習いそこない』の天台真言宗に教えられて、念仏と法華は一体のものだという説を数十年の間信じ続けていたと述べている(三〇一頁)」(『同』二九頁)

日蓮大聖人が数十年の間、念仏法華一体を信じていたのだろうか。御書には次のように認められている。
「妙法蓮華経は能開なり南無阿弥陀仏は所開なり、能開所開を弁へずして南無阿弥陀仏こそ南無妙法蓮華経よと物知りがほに申し侍るなり、日蓮幼少の時・習いそこなひの天台宗・真言宗に教へられて此の義を存じて数十年の間ありしなり、是れ存外の僻案なり」(「題目弥陀名号勝劣事」全一一五)
「教授」は文が読めるのだろうか。日蓮大聖人はこの御書で、そのような邪義を知ってから、数十年経っていると述べられているのである。
「此の義を存じて数十年の間ありしなり、是れ存外の僻案なり」(同)
この箇所を「教授」は十回くらい読んでみる必要があるのではあるまいか。この箇所の一体どこから、「日蓮大聖人が数十年の間、念仏法華一体を信じていたことを回顧されている」という趣旨が読み取れるのであろうか。

四、「教授」云く。 「日蓮が鎌倉で法然流の専修念仏を学んだ可能性については、すでに指摘されている。高木豊氏は、日蓮が一時専修念仏者としての道 を歩んだと推測しておられる[高木70]。
しかし、私は日蓮が鎌倉で専修念仏の教義に触れたものの、それはあくまでも知識のレベルに留まるものであったと考えている。日蓮は結局専修念仏に共感を憶えることもなく、その道に足を踏み入れることもなかった。逆に、天台宗の伝統である法華・真言を軽視する念仏者たちに反感を抱いた」(佐藤弘夫著『日蓮』二九頁〈筆者註、文中の[高木70]とは、「教授」が自著『日蓮』において使用している表記で、立正大学教授であった故・高木豊の一九七〇年の著作『日蓮――その思想と行動』を指している〉)

日蓮大聖人は「反感」から念仏批判をされたのであろうか。日蓮大聖人の教法は民衆救済を目的とされたのではなく、「法華・真言」を護るためのものであり、その反感から念仏批判が生まれ、その「反感」の延長線上に日蓮大聖人の法難があると言うのであろうか。
そうはいかないのではないか、「教授」。
ただし、「教授」のように軽佻浮薄な者は、行きがかりで書を著すために、批判される憂き目に遭うことはある。

五、「教授」はまた、
「繰り返していうが、『戒体即身成仏義』の真偽についてはいまのところ確証がない」(『同』三〇頁)
としながら、その三行後には、次のように書いている。
「一見天台宗の信仰世界を忠実になぞっただけにみえるこの書にも、日蓮の独自性は現れている。日蓮は清澄で学んだ天台・真言の正統性に確信を深める一方、専修念仏に対する深い嫌悪の念を抱いて鎌倉から清澄に戻ったのである」(同)

「確証がない」ことによって、「学説」とやらを述べていいものなのであろうか。しかもそれは、日蓮大聖人の若い頃の有りようを決定づけている。これを我見という。

六、「教授」は立正大学の故・高木豊教授の論を集約し、次のように紹介している。
「日蓮は比叡山で、心底師と仰ぐ人物に出会うことができなかった。おそらく門閥の壁が大きく立ちはだかったことであろう。田舎の秀才である日蓮は、相当な自負心を抱いて叡山の門戸を叩いた。けれどもそこには、優秀さにかけては日蓮に劣らない多くの若者たちがいた。東国出身による言葉の壁も、彼にとって障害となったかもしれない」(『同』三五頁)

立正大学教授が何を言っても構わない。日蓮宗が創った大学だ。いわばお手盛りの教授ということになる。しかし国立大学の「教授」が、それを受けて次のように書いていることは看過できない。
「尊敬できる生涯の師と巡り合うできなかった(ママ)ことに加え、疎外感にさいなまれた日蓮は、次第に書物の世界に沈潜していった。書物を通じて、時空を超えた真理の探求に没頭した。日蓮は後に涅槃経の『依法不依人』(法に依りて人に依らざれ)という言葉を重んじ、たびたび引用するようになる。『人の言葉よりも仏の教えを重んぜよ』――日蓮がこの言葉を繰り返す背景には、比叡山での彼の孤独な勉学の体験があった」(同)
「学説」ならば、まじめに論じるべきだ。日蓮大聖人が「依法不依人」を御書で強調されるのは「疎外感」や「孤独感」の故だというのであろうか。日蓮大聖人をあまりに矮小歪曲しすぎている。
「教授」は自面を恥じるか。「教授」は「国訛り」を自羞するか。「教授」はいずこかに劣等感を抱くか。「教授」は自己嫌悪の故に、かくの如き「学説」を展開するか。日蓮大聖人の教法は、「疎外感」の故に世に顕されたのか。
では、それを信じる者はどうなる。「教授」はそれらの人々を心底において蔑んでいる。よって黙止することあたわず。

七、「教授」云く。 「日蓮がもし比叡山で心から尊敬できる師匠を見出していたならば、あるいは寺内で順調な昇進を遂げていたならば、思想家・宗教家日蓮は誕生しなかったにちがいない。疎外感孤独感が、日蓮を妥協のない一途な真理追究の道へと押しやったのである」(『同』三六頁)

日蓮大聖人云く。
「本より学文し候し事は仏教をきはめて仏になり恩ある人をも・たすけんと思ふ、仏になる道は必ず身命をすつる ほどの事ありてこそ仏にはなり候らめと・をしはからる」(「佐渡御勘気抄」全八九一)
日蓮大聖人がこのように認め られているのは嘘だと「教授」は言っているのである。

八、「教授」は日蓮大聖人の立宗の時のこととして、次のように書いている。
「日蓮はこの時点で真言に対してきわめて友好的な姿勢を取っていた。それは台密のみならず、東密にまで及んでいた。また、律宗もまだその視野には入っていなかった。日蓮がこのとき明確に対立的な立場をとっていたのは、法然の念仏宗だけだった」(佐藤弘夫著『日蓮』四三頁)

これについての批判は、本文の第二章「悟達」、第十章「修学」、第十一章「立宗」、第十二章「戒體即身成佛義」、第十三章「不動・愛染感見記」、第十四章「布教戦略」に譲る。日蓮大聖人は法華最勝を最初から確信し、諸宗の悉くが国や民のためにならないとして立宗されたのである。法華最勝、「教授」の言い方をすれば「法華独勝」ということになるが、「法華独勝」と他宗との馴れ合いはどのように成立するのか。「法華独勝」が他を劣と解するのは当然。劣たるものと詐親するのを〝立正〟と言うか。「教授」、自らの妄説をもって慢ず。
また「教授」は、このような「論」が「学者」や「研究者」の主流になっているという。その学者や研究者が誰なのかを明示しなければ、「学説」とはいえない。

九、「教授」云く。 「日蓮初期の念仏批判は、その大筋において旧仏教の論理を踏襲するものだったのである」(『同』四八頁)
竜樹の『十住毘婆沙論』を引いての念仏批判は、日蓮大聖人独自のものだった。日蓮大聖人が『十住毘婆沙論』について言及された「守護国家論」の真蹟は身延曾存。よってその「学説」は間違っている。

ところで「旧仏教の論理を踏襲するもの」が、どうして諸宗から悪口罵詈され、刀杖瓦石の難を受けるのであろうか。「教授」の想像力の無さに嘆息する。

十、「教授」は『偽書の精神史』においては次のように記述している。 「同時代の仏教界のあり方に根本的な疑問を抱いた日蓮は、そこを飛び越えて直接本地の仏からの解答を得ることを目指した。それは日蓮のライバルであった法然や親鸞にもみられたことだった」(佐藤弘夫著『偽書の精神史』一九一頁)
「教授」は定見を持っているのであろうか。ここでは日蓮大聖人について「同時代の仏教界のあり方に根本的な疑問を抱いた日蓮は、そこを飛び越えて直接本地の仏からの解答を得ることを目指した」と書いている。「疑問を抱いた」「本地の仏からの解答を得ることを目指した」というと「初発心」の時のこととなる。そうなると「教授」は、その「初発心」を遂げないままに日蓮大聖人は立宗されたと、別著の『日蓮』で言っていることになる。『日蓮』を書いた「教授」と、『偽書の精神史』を書いた「教授」は同一人物なのだろうか。それとも一人の「教授」が分裂しているのだろうか。
なお、日蓮大聖人の御書の中には「親鸞」という文字は一切無いことを伝えておく。日蓮大聖人は「親鸞」という人物を「しらん」のである。「教授」が「ライバル」という言葉を使ったので、ここであえて教示する。筆者、ちょっと「国訛り」が出た。なお「親鸞」は破戒の女誑しの坊主にすぎない。鎌倉時代に「親鸞」がどの程度の影響力を持っていたのかについては、「日本思想史」を専攻する「教授」の今後の研鑽に期待する。ただし、「夢想」は今回限りにしてくれ。

十一、「教授」云く。 「日蓮が初めて入寺した清澄寺でも留学先の比叡山でも、天台に加えて密教の行法が併修されていたことであろう。日蓮は法華と真言の共存を当然のこととして受け入れる宗教的風土の中で、仏教者としての歩みを開始したのである。そうしたこともあって、日蓮は当初真言に対して並々ならぬ親近感を抱いていたようである。日蓮は立教開宗の翌年、『不動・愛染感見記』という書を著し、『大日如来より日蓮に至る、二十三代嫡々相承』(一六頁)と記して、みずからを大日如来以来の系譜に位置づけた。正元元年(一二五九)の『守護国家論』に至っても、『法華真言の直道』といった法華と真言を同等に捉える言葉が散見する。建長五年の段階では、日蓮はまだ法華と真言を同体視する天台的世界の内部にあったのである」(佐藤弘夫著『日蓮』五一頁)
ご苦労な事に「教授」は、真書として偽書「不動・愛染感見記」の写真まで載せている。「真言に対して並々ならぬ親近感」を抱いているのは「教授」ではあるまいか。「教授」は真言に親近感を抱いているが故に、真偽判ができないと見える。
ところで「教授」は、大日如来から「相承」したとする二代から二十二代までの人物特定を、生涯をかけて研究する必要がある。これはこの「教授」の「学説」の完結に不可欠なことと言える。期待している。

十二、「教授」云く。
「この論理は、すでに『戒体即身成仏義』にみられたものだった」(『同』五三頁)
「教授」は「戒体即身成仏義」について「真偽についてはいまのところ確証がない」と言っておきながら、この『日蓮』において、誤読したままの「戒体即身成仏義」を使って、自義を補強している。同書の「戒体即身成仏義」に関する記述は、五〇頁、五三頁、五五頁、五七頁、一一三頁、一二五頁、一四三頁、一四六頁などにある。真偽についての判断を逃げながらも反復して使用し、既成化するといった手法を取るべきではない。学者の見識を疑われる。

十三、「教授」云く。
「念仏そのものが撲滅すべき悪法であるという結論に達した日蓮の目には、清澄寺で公然と行われている天台流の念仏さえもが、天台の純粋な信仰世界を汚染する邪悪な法と映ったことは十分に想像できる。かくして日蓮は、彼が正統天台のあるべき姿と考えていた、法華と真言を中心とする最澄の時代の信仰世界を清澄寺に再現すべく、天台流の念仏をも寺内から駆逐すべきことを主張するのである」(『同』五八頁)

当時の清澄寺の有り様は、「妙法蓮華経は能開なり南無阿弥陀仏は所開なり、能開所開を弁へずして南無阿弥陀仏こそ南無妙法蓮華経よと物知りがほに申し侍るなり」(「題目弥陀名号勝劣事」全一一五)といったものだった。これが「天台流の念仏」なのだろうか。清澄寺は雑乱していただけのことだ。

十四、「教授」云く。 「念仏は内部で増殖しながらその本体をむしばむ、さながら仏教界のガンだった。日蓮は強引にそれを切除するという荒技に着手したのである」(佐藤弘夫著『日蓮』六一頁)
「仏教界のガン」を「切除」するために立宗したと言っているのであろうか。立宗は、混濁した当時の日本宗教界の擁護のためか。念仏以外の売僧の生活を保障するためか。笑止。

十五、「教授」は偽書「不動・愛染感見記」を受け、次のように述べている。
「新仏=日吽はその書写した著作などからみても、明らかに真言の行者だった。日蓮もまた彼に大日如来以来の真言の血脈を授けている。すでに指摘したように、日蓮は『立教開宗』の翌年に至ってもまだ真言行者としての一面を有していたのである。
この不動・愛染明王の示現は、日蓮にとってきわめて衝撃的な出来事だった。日蓮は後に独自の曼荼羅本尊を著すようになると、紙幅の左右にかならず梵字の不動と愛染を書き入れている」(『同』六三頁)

「教授」はこの論を展開するにあたり、身延山大学教授の寺尾英智と立正大学教授の高木豊の説を援用している。日蓮宗の学者がどのように言おうと、まあ、それはよい。しかし、「教授」は国立大学の「教授」なのである。身延山大学教授と立正大学教授の「権威」を借り、自説を粉飾するか。
「教授」は国民の税金と学生の授業料によって生活をしている。それ故に国立大学の「教授」であることを忘れてもらっては困る。なお、「権威」により、偽書を真書と取り違えて「学説」を立てるのはやめたほうがよい。
御本尊に梵字の不動と愛染が認められているのは、権実雑乱を破するためである。「教授」のような者に制誡を加えるためである。
なお、このことについては本文第十三章「不動・愛染感見記」で述べたので詳述を省く。

十六、「教授」云く。
「日蓮が鎌倉に出た理由の一つに、人脈の関係があったと考えられる」(『同』七三頁)

因果関係が逆である。日蓮大聖人は国主諫暁のために鎌倉に出る必要があった。そのために人脈をたどられたと見るべきだ。「教授」のこの記述によれば、「人脈」の成り行きで鎌倉に出たように読める

十七、「教授」云く。
「日蓮は夢想家であり、情熱の人だった。その反面、現状認識や政治判断については、透徹した現実主義者としての側面を持っていた」(『同』七五頁)

「教授」は日蓮大聖人の人格をどのように規定しようとしているのであろうか。人にはさまざまな特質がある。ところで〝夢想家〟とは、侮蔑の言葉ではなかろうか。日蓮大聖人を〟能天気〟だというのか。「夢想家」は、どのようにして「現実主義者」となりうるか。如何。「教授」の精神は、それを許容するか。不可解。

十八、「教授」は「守護国家論」の次のような箇所を引用する。 「仏説に就きてまた小乗教は不了義、大乗教は了義なり。大乗に就きてまた四十余年の諸教は不了義経、法華・涅槃・大日経等は了義経なり」(「守護国家論」九七頁)
その上で次のように「教授」は述べる。
「日蓮はここで、法華経などが『了義経』(完全な教え)であるのに対し、法華経以前に説かれた経は『四十余年未顕真実』の『不了義』(不完全な教え)にすぎないことを強調している。ただし、日蓮はこの段階においても、念仏以外の諸仏諸経の存在価値そのものを否定することはなかった。また、涅槃経・大日経が法華経と並んで『了義経』とされており、真言が法華経と同位に位置づけられていることがわかる。念仏に対して、『法華・真言』を正法とする記述は『国家論』に散見されるものであり、日蓮は法華真言未分の立場をまだ抜け出すことができなかった

 いかに法華至上が強調されようとも、『国家論』は、基本的にはすべての仏法を正法とみなす〈融和主義〉の枠内にとどまっていた。その意味では、〈融和主義〉の立場から専修念仏の排他性を攻撃し、否定するという、『立教開宗』以来の枠組みを超えるものではなかったのである」(『同』八三頁)
「教授」は"切り文"解釈が過ぎる。「守護国家論」の結論は次のようになっている。
無量義経に四十余年の諸経を挙げて未顕真実と云う、涅槃経に云く『如来は虚妄の言無しと雖も若し衆生・虚妄の説に因つて法利を得と知れば宜しきに随つて方便して則ち為に之を説き給う』又云く『了義経に依つて不了義経に依らざれ』已上是の如きの文一に非ず皆四十余年の自説の諸経を虚妄・方便・不了義・魔説と称す是れ皆人をして其の経を捨てて法華涅槃に入らしめんが為なり、而るに何の恃み有つて妄語の経を留めて行儀を企て得道を期するや、今権教の情執を捨て偏に実経を信ず故に経に就て信を立つと云うなり。
問うて云く善導和尚も人に就て信を立て行に就て信を立つ何の差別有らんや、答えて云く彼は阿弥陀経等の三部に依つて之を立て一代の経に於て了義不了義経を分たずして之を立つ、故に法華涅槃の義に対して之を難ずる時は其の義壊れ了んぬ。」(「守護国家論」全七七)
この結論を「教授」は読めるだろうか。「教授」の学説は、「法華涅槃の義に対して之を難ずる時は其の義壊れ了んぬ」。

十九、「教授」は正嘉の飢饉について述べる。この飢饉で屍が累々としていたことを「教授」は描写する。そして以下のように述べる。
「死が日常から周到に遠ざけられた現代社会とは違って、鎌倉時代を生きた日蓮は、それまで幾度も屍を目にする機会があったことであろう。その日蓮にとっても、これほどのおぞましい光景は初めてだった。彼の受けた衝撃は大きかった
日蓮はかつて学んだ天台の教えを思い返していた」(佐藤弘夫著『日蓮』八八頁)
正嘉の大飢饉といえば正嘉年中のことで、日蓮大聖人が三十六歳から三十八歳の頃の出来事である。この時になって日蓮大聖人が「天台の教えを思い返していた」というのは、それまで「かつて学んだ天台の教え」を忘れていたということを言っているのだろうか。「教授」は次のように述べている。
「日蓮は飢饉の体験を通じて、天台本覚思想のような理想と現実を無媒介に一体的に捉える発想に疑問を抱き、しだいにそこからの離脱を模索するようになるのである」(『同』八九頁)

「教授」は、"自説"と「現実を無媒介に一体的に捉える発想に疑問を抱」くべきだ。

二十、「教授」云く。
「『立正安国論』に説かれる善神捨国(『神天上の法門』ともいう)は、日蓮の『予言』の根拠をなす論理であり、彼の思想を特色づけるものとしてあまりにも有名である。だが、善神捨国は日蓮の専売特許ではなかった」(『同』一〇〇頁)

 日蓮大聖人は、正法を誹謗すれば善神が国を捨て去るということは、仏法の理であると、一貫して主張されている。日蓮大聖人がこの法門について「専売特許」と主張されたことはない。この仏法は専ら売るために特に許しを得るものではない。仏の法理は売り物ではない。日蓮大聖人の弟子ら一同、そのことは重々承知している。だが「教授」の「学説」は、売文である。ただし売り物であっても「専売特許」には触れない。身延の一派が何百年も垂れ流してきた基本ソフトに順じているからだ。特許権は五十年を限りとする。

二十一、「教授」は「立正安国論」について、次のように述べている。
ただし宗学においては、日蓮の信仰体系の完成は佐渡流罪期以降(佐後)とされていることから、流罪前(佐前)の著作である『安国論』は、教理的にはまだ未完成の域に留まるものと位置づけられてきた。
『安国論』が日蓮の代表的著作として脚光を浴びるのは、むしろ近代に入ってからのことだった」(『同』一〇二頁)

「教授」の言う「宗学」とは、どこの「宗学」なのだろうか。「未完成」な「立正安国論」によって、松葉ケ谷の法難があり、伊豆伊東の流罪、小松原の法難があったとするのだろうか。国立大学の「教授」の「学説」としては、お粗末すぎる。なお「立正安国論」の冒頭の三問三答は諸宗の批判に及んでおり、その後に念仏批判が展開されることを、「教授」が確認することを望む。日蓮大聖人は「立正安国論」において、諸宗批判をなされた後、一期の弘法において「先序」として念仏批判をされたのである。本文を参照されたい。

二十二、「教授」は「立正安国論」に引かれた比叡山延暦寺の「奏状」について次のように述べている。
「この文は『入唐求法巡礼行記』の一部をそのまま抜き出したものではなく、いくつかの部分を抄出してつなぎあわせたものであった。そのため、両者が偶然に一致する可能性はまずありえない。日蓮はこの部分を延暦寺の上奏文から孫引きしたのである」(『同』一一五頁)

「教授」によれば、「孫引き」したとする箇所は、以下の部分であるという。
「唐の武宗皇帝、会昌元年、勅して、章敬寺の鏡霜法師をして、諸寺において弥陀念仏の教を伝へしむ。…同二年、回鶻国(ウイグル)の軍兵等、唐の堺を侵す。同三年、河北の節度使、忽ち乱を起こす。その後、大蕃国更た命を拒み、回鶻国重ねて地を奪う」(『同』一一四頁)

 ところで「教授」は、日蓮大聖人の「立正安国論」の原文を読んだことがあるのだろうか。真蹟が残っている。「教授」は真蹟を確認した上で「孫引き」と書くべきだ。真蹟を行ごとに忠実に再現すると次のようになっている。なお、便宜上、旧字を新字に改めた。
「持者呼為田舎為司馬氏滅相又案慈覚
大師入唐巡礼記云唐武宗皇帝会昌元年
勅令章敬寺鏡霜法師於諸寺伝弥陀
念仏教毎寺三日巡輪不絶同二年回鶻
国之軍兵等侵唐堺同三年河北之節
度使忽起乱其後大蕃国更拒命回鶻
国重奪地凡兵乱同秦項之代災火起邑
里之際何況武宗大破仏法多滅寺塔不能
撥乱遂以有事已上取意以此惟之法然者」(『日蓮聖人真蹟集成』第一巻六〇頁 改行も真蹟に依る)
筆者は「教授」の言うことが理解できない。日蓮大聖人が「孫引き」をしたという痕跡を見出すことができないのである。だが、何やら「教授」の指摘が誤解に基いていることはわかる。
引用文はどこから始まるのか――。それについて「教授」は原文を見ず、早計に判断しているにすぎない。言うならば、これは学者にあるまじきことである。「教授」失格だ。
引用文は正しくは、「案慈覚大師入唐巡礼記云」と書かれたところから始まっているのである。決して「唐武宗皇帝」から始まっているのではない。要するに「教授」は勘違いしているのである。
ちなみに、「教授」が日蓮大聖人の「孫引き」先とする「山門奏状」の全文は、「念仏者追放宣旨事」に出ている。寛文九(一六六九)年発行の『刊本録内御書』を行ごとに忠実に再現すると次のようになる。なお、便宜上、旧字を新字に改めた。また、不必要な箇所については、〈中略〉と表記するので、それをまた読み違えることのないよう、前もって注意を喚起しておく。
山門奏上云
一一向専修党類向背神明不当之事
〈中略〉
一一向専修加漢之例不快事
案慈覚大師入唐巡礼記云唐武宗皇
帝会昌元年勅令章敬寺鏡霜法師於諸宗
伝弥陀念仏教毎寺三日巡輪不絶同二年
回鶻国之軍兵等侵唐堺同三年河北之節
度使忽起乱其後太蕃国更拒命回鶻国
重奪地凡兵乱同秦項之代災火起邑里
之際何況武宗大破仏法多滅寺塔不
能撥乱遂以有事已上取意是則恣信浄土之
一門依不仰護国之諸教而吾朝弘通
一向専修以来国属衰微俗多艱難已上
略之又云以音哀示知国減衰詩序云治
世之音安以楽其政和乱世之音怨以怒其政乗
亡国之音哀以思其困云云聞近代念仏之
曲背理世民之音巳成哀慟響是
可亡国之音矣是四已上奏状」(改行は『刊本』の表記に依る)

「教授」は理解できたであろうか。
元来、これらの事実を踏まえて、「教授」の学説のありようは、次のようになるべきだ。 「『立正安国論』に引用されているものは、『念仏者追放宣旨事』に書かれている『山門奏状』の『案慈覚大師入唐巡礼記云』から『已上取意』までが同じである。つまりこれが奏状からの引用箇所にあたる」
「日蓮は『山門奏状』の正確な写しを持っていた」
「『立正安国論』原本の奏状部分と『刊本録内御書』の『念仏者追放宣旨事』の奏状部分とでは、『諸宗』と『諸寺』の文字の異同が認められる」等等。
このようなことこそ、「教授」が指摘すべきことである。『日蓮』というタイトルで一書を著す「教授」にこのようなことを読者が求めるのは、過分の期待ということになるのだろうか。
なお、「教授」の今後の研究に資するため、一例を紹介しておく。
日蓮大聖人の「釈迦一代五時継図」(系年不明)には、「案ずるに云く」の用例が確認される。
「伝教大師の秀句の下に云く『(略)』云云、又云く『謹みて法華経法師品の偈を案ずるに云く薬王今汝に告ぐ我か所説の諸経而も此の経の中に於て法華最も第一なり已上経文当に知るべし斯の法華経は諸経の中の最為第一なり』と」(「釈迦一代五時継図」全六五七)
「伝教大師」は、このように「案ずるに云く」と書いている。「教授」の「学説」によれば、「伝教大師」は法華経を「孫引き」していることになるが、如何。真摯な研鑽により、「教授」として大成されることを望む。

二十三、「教授」云く。
「『立正安国論』提出前に、時頼が実際に日蓮と面談した可能性が大きいことは先に述べた。時頼はまだ老成したという年齢ではなかったが、一〇代から地獄を見てきたその眼力には確かなものがあった。彼は日蓮がたんなる野心家や山師ではないことを即座に見抜いたにちがいない。世を憂い安国の到来を願うその真情もよく理解できた。
しかし、彼には前執権であり北条得宗という立場があった。日蓮の登用と専修念仏の禁止がどのような政治的な結果をもたらすかを、彼は十二分に承知していた。『立正安国論』のごとき過激な主張の黙殺は、ある意味では日蓮に対する消極的ではあっても精一杯の好意だったのである」(佐藤弘夫著『日蓮』一二九頁)

日蓮大聖人が「立正安国論」提出の前に時頼と会ったことは「安国論御勘由来」において「復禅門に対面を遂ぐ故に之を告ぐ之を用いざれば定めて後悔有る可し」(全三五)と書かれていることからして明らか。
「禅門」は北条時頼を指す。真蹟・中山法華経寺蔵。「可能性が大きい」との表記は、何を恐るるや知らん。
ところで「黙殺」が「好意」だと言っているが、日蓮大聖人の松葉ケ谷の草庵が襲撃された時に、時頼は犯人を処罰したのであろうか。〝暗殺〟の黙認についての「教授」の評価は如何。
「好意」による「黙殺」だと言う「学説」は承諾しかねる。法華経勧持品第十三に予言された末法の法華経の行者が受ける難である「数数見擯出」は。「好意」の所産なのか。小松原で日蓮大聖人を襲撃した東条景信を時頼が罰せず、「黙殺」したのも、日蓮大聖人に対する「好意」だったのだろうか。ここにおいて「学説」窮し畢んぬ。

二十四、「教授」、伊豆伊東の流罪に触れて云く。
「これ以上日蓮を放置して、市内に混乱を招くことは好ましくない。――幕府の要路はこう決断した。時頼もこの方針にあえて異を唱えることはしなかった。あるいは、このままでは日蓮の生命が危ない、一度鎌倉から引き離して冷却期間をおいたほうがいい、という思いがあったのかも知れない。かくして伊豆流罪は実行された」(佐藤弘夫著『日蓮』一三三頁)

「教授」は時頼にインタビューしたのだろうか。『御成敗式目』に照らして流罪の処置がとられたことは明らかである。学者ならば、どの条文が適用されたのかを研究すべきである。もし研究していて、かくの如く記すのであれば、「教授」は浮世離れしている。いや、日蓮大聖人を貶めている。
旧・帝国大学の"象牙の塔"からは、瀬音ゆかしき杜の都の景観しか見えぬのだろう。巷の人々の呻吟、庶民の喘ぎが聞こえぬか。日蓮大聖人の教法を実践する人たちの不断の努力と友への同苦の思いがわからぬか。わかるまい。

諸度の所払い、手を折られ頭に傷を蒙る。果ては二度の流罪。これが権力者の"御配慮"だと言う。お目出度き人、「教授」。孟子だったか孔子だったか、あるいは荘子か――、孫子でないことは確かだ。どのような外典の師の言ったことかは忘れたが、箴言を送ろう。「寝言は寝て言え」。

二十五、「教授」は、『日蓮』一三六頁で、日蓮大聖人の「南条兵衛七郎殿御書」を引用する。
今年も十一月十一日日、安房国東条の松原と申す大路にして申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられ候て、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものゝ要にあふものはわずか三、四人也。いるやはふるあめのごとし、うつたちはいなずまのごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候。自身もきられ、打たれ、結句にて候し程にいかが候けん、うちもらされていままでいきてはべり」
この後の「教授」の解説がデタラメである。「教授」は次のように書いている。
「時刻は申酉の時、午後五時頃である。旧暦の一一月といえば、一年でもっとも夜の長い時期に当たる。日はすでに落ちて、闇が一帯を支配していたことであろう
日蓮らは景信を 警戒して、夕闇が忍び寄る時刻を選んで移動していたようである。十分とはいえないまでも、何人かの護衛は付いていた。だが東条松原はまさしく景信の本拠地だった。『数百人』と形容される多勢が、一斉に日蓮一行に襲いかかった。日蓮の行動を読んだうえで、十二分に練り上げられた作戦だった」(『同』一三七頁)

「教授」のために『毎日新聞』(平成十六年九月二十一日付)の記事を引用する。
「小学4~6年生の約4割は『太陽が地球の周りを回っている』と考え、半数以上は月の満ち欠けの理由を理解していないなど、基本的な天文知識を欠いていることが、縣秀彦・国立天文台助教授らの調査で分かった。21日から盛岡市で始まる日本天文学会で発表される。縣助教授は『現在の小学生の学習内容は極めて不十分』として、学習指導要領の修正を提案している。
縣助教授らは01年6月~今年6月、全国8都道府県の小学4年生から中学一年生の計1692人に、理科の好き嫌いや天文の知識についてアンケートした。
このうち北海道、長野県など4道府県の公立小学校4校の4~6年生計348人に、太陽と地球の関係の理解を二者択一で確かめたところ、『地球は太陽の周りを回っている』と正解を選んだ児童は56%にとどまり、42%は『太陽が地球の周りを回っている』と誤った方を選択した。
また、6都道府県の計720人に月の満ち欠けについて聞いたところ、『地球から見て太陽と月の位置関係が変わるから』と正解を選んだのは47%と半数以下だった」
「教授」は、「小学4~6年生」の不正解者およそ半数のうちの一人だ。月の満ち欠けについての初歩的な天文学についての知識がない。さらに「教授」は、中世史についての著書を多く著しているが、月の満ち欠けに敏感だった当時の人たちの天文知識に関する認識に欠けている。旧暦についての認識も欠如している。

ここまで書いて「教授」は、わかっただろうか。わからないだろうなあ。
それでは、『万葉集』に採集されている柿本人麻呂の短歌を紹介しよう。

 ひんがしの 野にかぎろひの 立つ見えて 返り見すれば 月かたぶきぬ

いい歌だ。雄大だ。ところで「教授」、この月はどのような月だろうか。正解は満月である。十五夜、お月さんだ。
それでは蕪村の、

 菜の花や 月は東に 日は西に

はどのような月だろうか。これは正確に言えば満月ではない。少し欠けている。なぜなら「月」と「日」が視野に入っているからだ。十四夜かもしれない。「教授」はここまでの記述で、なにかに気づくことができただろうか。
中世史についての著書が多いから、違った表現で「教授」の理解をすすめよう。中世の人は三日の月を何と呼んだか。"三日月"である。これは正月でも、四月、七月、十月でも同じだ。いつの月でも三日に出るのは"三日月"だ。
〝三日月〟の形状は知っているだろうから、ここでは言及しない。
では十七夜の月を"立待月"、十八夜の月を"居待月"、十九夜の月を"寝待月"、二十夜の月を"更待月"と言う。要するに、日が沈んだ後に、月が昇るのをそのようにして見たということだ。やっと気づくことができたのではないだろうか。
小松原の法難は「十一月十一日」すなわち"十一夜"だった。十一夜は日没の時には既に月が出ている。それもかなり明るい月だ。
では、中学生の理科だ。月が地球を一周するのにかかる日数はおよそ二九・五三日である。これを朔望周期と言う。一周ということは三六〇度回ることになる。三六〇度を先ほどの朔望周期二九・五三日で割ると、およそ一二・一九度となる。多少の誤差はあるが、十五夜において太陽と地球と月とがほぼ一直線に並ぶと考えた場合、十一夜の月は十五日の四日前に出るのだから、日没時には、月は水平線より一二・一九度の四倍の高さにあるということになる。つまり四八・七六度だ。ただし、これは春分、秋分の時の単純な計算だ。冬至の時における誤差は、今後の「教授」の研究に任せる。当日、どの程度、雲が出ていたかについては、「教授」の「霊的資質」に委ねる。
ここで「教授」に助言しておく。疑念がなおも残るようなら、優秀な小学生に聞いてほしい。「日本思想史」発展のために、乞う。
「旧暦の一一月といえば、一年でもっとも夜の長い時期に当たる。日はすでに落ちて、闇が一帯を支配していたことであろう」
この「学説」は間違いだ。日蓮大聖人は、先に「教授」が引用した御書において「いるやはふるあめのごとし」と書かれている。これを素直に読まないから、こういう失敗をする。「幻視」だと思っているからこういう恥をかく。

二十六、「教授」は松葉ケ谷の法難、伊豆伊東の流罪、小松原の法難に触れた後、次のように述べている。
「かつて日蓮は、みずからの到達した信仰に絶対的な確信を抱いて清澄で立教開宗を行った。そして念仏を 批判し、法華経を宣揚した。にもかかわらず、念仏はますます繁栄し、日蓮の方が一方的に窮 地に追い込まれている。これはなぜであろうか。
この疑問を抱いて経典を読み込んでいった日蓮の目に、一つの文が飛び込んできた
しかもこの経は、如来の現在すら、猶、怨嫉多し、況や滅度の後をや。(この経を 信仰するものは、釈迦が生きていたときですら、多くの怨嫉を被る。まして仏滅後はなおさらである)

 これは法華経の『法師品』にある言葉である。法華経を正しく実践するものは必ず迫害にあう――仏はこう予言しているのである。日蓮はこれまでいくども法華経を読み込んできた。ほとんど全文を暗記するほどになっていた。けれども、この言葉が目を引くことはなかった。それがいま、まったく違った輝きをもって、向こうから彼の目に飛び込んできたのである
日蓮は、改めて舐めるように法華経の文面を辿った。法華経を受持する者が難にあるという記述は他にもあった
仏の滅度の後、恐怖の悪世の中において、われ等は、まさに広く、説くべし。諸の無智の人の、悪口・罵詈などし、及び力杖(ママ)を加うる者あらんも、われ等は、皆、まさに忍ぶべし。(『勧持品』)
日蓮は深くこれらの言葉の意味を噛みしめた
――自分は身に降りかかる迫害に、一度は疑問は抱いた。けれども、それは仏の真意を知らない愚かな行為だった。仏が法華経を説かれた二〇〇〇年も昔に、仏は未来を見通し、法華経の信仰者に対する迫害の到来を予言しておられた。そしてその上で、真の仏弟子であろうとするならばそれに屈することなく、さらに弘経に邁進しなければならないと述べておられるのだ」(佐藤弘夫著『日蓮』一三九頁)

「教授」は〝教授〟たり得ないけれども、〝講談師〟にはなれる。「教授」は法華経の法師品第十が「向こうから彼の目に飛び込んできた」、そして勧持品第十三を「噛みしめた」の依文として、以下に示す日蓮大聖人の「四恩抄」を「切り文」としてあげている。
「世末代に入て法華経をかりそめにも信ぜん者の人にそねみねたまれん事はおびただしかるべきか。故に法華経に云く、如来の現在すらなお怨嫉多し、況や滅度の後をやと云々。始に此文を見候し時はさしもやと思候ひしに、今こそ仏の御言は違はざりけるものかなと、殊に身にあたりて思い知られて候へ」(『同』一四一頁)
「教授」は日蓮大聖人が、法華経を最初に読んだ歳を何歳だと思っているのだろうか。幼い時に読まれている。今の小学生が太陽と月と地球の位置関係について学ぶより、もっと幼い時だ。
もう「教授」の「学説」に対する批判をする意欲も出てこない。その故はあまりにもお粗末だからである。紙数の関係もあるから、あと二点だけを指摘しておく。

二十七、「教授」の「学説」に云く。
「日蓮が伊豆流罪を機に〈法華独勝〉の立場を確立し、否定の対象をしだいに念仏・禅からそれ以外の諸教・諸宗にまで広げていったことはすでに述べた。〈融和主義〉から〈選択主義〉への移行である」(『同』一五五頁)
また云く。
「かつて修学時代の日蓮は、台密教学の影響を受けて真言を法華の上位に位置づけていたことがあった。その影響は、念仏に対して法華・真言をともに『正法』とする『立正安国論』の時代まで受け継がれていた。それが伊豆期以降になると、日蓮には法華経と真言の中心経典である大日経を教理的レベルで比較し、はっきりと法華の優位を主張する言葉が現れるようになった
日蓮の真言批判は、蒙古退散の祈禱をめぐって日蓮が真言を本格的にライバル視するようになる文永五年以降、さらに深化していく」(『同』一五六頁)

この「学説」の根拠として「教授」は日蓮大聖人の御書である「法門申さるべき様の事」より、次の箇所を引用する。
「当世真言等の七宗の者しかしながら謗法なれば、大事のいのり叶ふべしともをほへず」(同)
それでは「教授」は、「本尊問答抄」の次の文をどのように読むのだろうか。
「真言宗と申すは一向に大妄語にて候が深く其の根源をかくして候へば浅機の人あらはしがたし一向に誑惑せられて数年を経て候先ず天竺に真言宗と申す宗なし然れども有りと」云云。
これは日蓮大聖人がみずからの修学時代について語られた記述だ。日蓮大聖人は真言宗の悪の根源を洗われるのに大変な苦労をされたと、この御書で述懐されている。御書を無視して、『日蓮』という「学説」を「東北大学大学院文学研究科教授」の肩書で世に出して良いものだろうか。
「教授」にとって「学説」とは〝己義〟のことなのだろうか。"妄説" "謬説"か。いや"珍説""拙論"だ。

二十八、「教授」は次のような「学説」を述べている。
「日蓮によれば、もともと正法の衰退による『他国侵逼難』を予言したのは日蓮ではなく釈迦であった。日蓮はそれを当時の具体的な状況にあてはめて解釈しただけであり、日蓮ならずとも『他国侵逼難』を予想することは十分可能だった」(佐藤弘夫著『日蓮』一六六頁)

簡単に予想できたのであろうか、「他国侵逼難」が。だったら諸宗派の者が口を揃えて幕府を動かしただろう。さすれば、日蓮大聖人が迫害されることもなかった。「教授」は、比叡山に武装した僧兵がいたのは、「他国侵逼難」に備えていたと見ているのだろうか。「具体的な状況」を無視して「学説」を述べる癖が、「教授」にはある。
ところで「教授」は『日蓮』と題する本を書いた時に、己義を披瀝すれば、それを論破されることを予見できなかったのであろうか。著者はそれが不思議でならない。以上、「教授」の『日蓮』の三四二頁のうち、一六六頁まで破した。以下は略す。
涅槃経は法華経の流通分にあたる。
「我涅槃の後正法未だ滅せず余の八十年・爾時に是の経閻浮提に於て当に広く流布すべし是の時当に諸の悪比丘有るべし是の経を抄掠して分つて多分と作し能く正法の色香美味を滅す是の諸の悪人復是の如き経典を読誦すと雖も如来深密の要義を滅除して世間荘厳の文を安置し無義の語を飾り前を抄て後に著け後を抄て前に著け前後を中に著け中を前後に著けん当に知るべし是くの如き諸の悪比丘は是魔の伴侶なり」
さらに日蓮大聖人云く。
「若し善比丘あつて法を壊ぶる者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子・真の声聞なり」(「立正安国論」〈全二六〉より引用)
この義により、「教授」とその「学説」を破した。以上。


以上の文は『日蓮大聖人と最蓮房 師弟不二の契約』の「註解」の付録として「『教授』の『学説』を批判する」と題して著したものである。

(本文中敬称略 2010年7月29日記す)

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