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「聖愚問答抄」は真書
福島金治・愛知学院大学教授の「聖愚問答抄」偽書説の検証と極楽寺良観

◆福島金治教授の「聖愚問答抄」偽書説

日蓮大聖人の御書である「聖愚問答抄」について、鎌倉時代の徴税のあり方に照らして偽書だと主張する中世史学者がいる。この説を鵜呑みにして、長年、「日蓮宗学」の研究に携わってきた者が同抄について偽書だと喧伝する。どうにも始末の悪い論が蔓延し始めたようだ。

この中世史学者とは福島金治氏。同氏は昭和54年から平成11年まで金沢文庫の学芸員を務め、現在は愛知学院大学文学部歴史学科教授である。

この説は『金沢北条氏と称名寺』(吉川弘文館 平成9年9月発行)に書かれており、日蓮大聖人御在世当時の鎌倉の港である「飯嶋の津」(和賀江島のこと。今の鎌倉市材木座沖)と朝比奈切り通しを越えた所に位置する海と陸の交通の要衝である「六浦(むつら)」(今の横浜市金沢区)の二箇所における徴税のあり様が、「聖愚問答抄」に記述されている内容と違う、ということを根拠に同抄を偽書だというのである。

これまで日蓮大聖人についての研究者たちが同抄の偽書説を述べることはあったが、それはあくまでも主観の範囲を超えないものであったり、写本がどうだ、古い時代の「偉い坊さん」が偽書と言っているなどという範囲を出るものではなかった。

ところが福島氏は、日蓮大聖人御在世当時の「飯嶋の津」と六浦の徴税のあり様が、「聖愚問答抄」に記された内容と違うというのである。
同氏は次のように述べている。

「最後に、六浦の関米については日蓮の『聖愚問答抄』の資料的位置は偽書と判断した」(『金沢北条氏と称名寺』83頁)

この判断が同氏によって導き出されたのは、"六浦には「関屋房」という関守の住む房があったことが古文書によって確認される。関守の住む「関屋房」があるということは、そこに「関」があったことを示し、かつ関米も取られていたことは間違いない。同関を管理・支配していたのは称名寺であるから、極楽寺が取ることはない"という考証による。このような考証により、同氏は「聖愚問答抄」を偽書だと判断したというのである。

ここで念を押しておくが、同氏の記述は正確には次のようなものである。

「六浦の関の管理は称名寺にあったことは動かしがたいであろう」(『同』76頁)

「称名寺が関米を取ることはあっても、極楽寺が取る可能性は低いと思われる」(『同』77頁)

このように、「聖愚問答抄」が偽書である根拠として同氏があげているものは「可能性」の範囲であるに過ぎない。ところが同氏は「聖愚問答抄」について先に紹介したように、

「最後に、六浦の関米については日蓮の『聖愚問答抄』の資料的位置は偽書と判断した」(『同』83頁)

と結論付けるのだから、同氏の論証は甘い。

◆「聖愚問答抄」の該当箇所と疑難

はじめに、同氏が問題とする「聖愚問答抄」の該当箇所を引用しておきたい。「聖愚問答抄」は「愚人」の発する問いと、「聖人」の答えから成り立っているが、その「聖人」と出会う前に「愚人」は一人の律を奉じる「智人(=上人)」と話をしている。その「智人」の言葉の中に該当箇所が出てくる。

「就中極楽寺の良観上人は上一人より下万民に至るまで生身の如来と是を仰ぎ奉る彼の行儀を見るに実に以て爾なり、飯嶋の津にて六浦の関米を取つては諸国の道を作り七道に木戸をかまへて人別の銭を取つては諸河に橋を渡す慈悲は如来に斉しく徳行は先達に越えたり」(『日蓮大聖人御書全集』475頁 下線は筆者)

「智人」が極楽寺良観の慈悲と徳行を称えている箇所である。

続いて、一人の「居士(=聖人)」が現れる。彼は次のように語る。

「今の律僧の振舞を見るに布絹・財宝をたくはへ利銭・借請を業とす教行既に相違せり誰か是を信受せん、次に道を作り橋を渡す事還つて人の歎きなり、飯嶋の津にて六浦の関米を取る諸人の歎き是れ多し諸国七道の木戸・是も旅人のわづらい只此の事に在り眼前の事なり汝見ざるや否や。」(『同』476頁 下線は筆者)

「聖人」は「智人」の称えていた極楽寺良観こと忍性について、「飯嶋の津」にて六浦の「関米」をとり、土木事業のみならず、財を蓄え、金貸しなどをしていると批判している。

そして、「飯嶋の津」において、「六浦」で取るべき関米を極楽寺良観が取っていることも批判している。

福島氏はこの記述内容が史実に反しているとし、六浦において「称名寺が関米を取ることはあっても、極楽寺が取る可能性は低いと思われる」から、「聖愚問答抄」を「偽書と判断した」というのだ。

では次に、福島氏がこのような結論に至る過程を、同氏が著書において根拠として示した古文書を中心に見ていきたい。

◆福島氏は「聖愚問答抄」の文脈を無視している

福島氏の著書『金沢北条氏と称名寺』に「武蔵国久良岐郡六浦荘について」という小論が収録されている。その「三」として「六浦関米について」という一項が設けられ、ここにおいて同氏は「聖愚問答抄」を偽書と結論付けている。

この項の冒頭において同氏は、「聖愚問答抄」について、

「日蓮の信仰を研究する場合は偽書と考えられ、一方、律の問題を論ずる際はそのまま利用されることの多い資料である」(『金沢北条氏と称名寺』72頁)

と述べる。「日蓮の信仰を研究する場合は偽書と考えられ」とは、にわかには首肯しがたい。

また福島氏は、「聖愚問答抄」の該当箇所を引用して示したあと、この御書の系年について文永2年説と同5年説があることに触れ、

「忍性の極楽寺入寺や審海の称名寺入寺は文永四年であり、すくなくとも、それ以降である」(『同』73頁)

と述べている。忍性というのは極楽寺良観のことであり、極楽寺と称名寺は本末関係にあり、審海の称名寺入寺は忍性の同寺に対する強い影響力によるものと思われる。

次に福島氏は独自の分析手法として、極楽寺良観について記されている御書を「真跡」と「写本」とに分類してみせる。その中で良観のことを「生身の如来」と書いている「聖愚問答抄」の表現を吟味するにあたり、「世尊の出世」「生仏」「如羅漢」などと褒め上げている写本が、日興上人のもの以外は室町期以降の写本であることを指摘している。そして、「真跡では『悪人』『天魔法師』等の批判が主体である」(『同』74頁)と述べ、極楽寺良観が没後に菩薩号を勅許されたことによって、こうした「生身の如来」といった表現が用いられたと推測し、「写本」が室町期以降に偽造されたかのように書いている。

だがこれは、「聖愚問答抄」の文脈を無視したものである。先に述べたように「聖愚問答抄」の文において良観を「生身の如来」と称えているのは、律を奉じ良観を尊敬している「智人(=上人)」だけであり、「聖人」は真っ向から極楽寺良観の悪事を批判している。よって福島氏の指摘は当たらない。

ましてや「生身の如来」という表記があるからといって、極楽寺良観が没後に菩薩号をもらった以降のものであると断定することは、とうてい学者とは思えない拙い主張といえる。

ちなみに、「念仏無間地獄抄」(録外)には法然をさして世間の風評をもとに「生身の弥陀」という表現を用いられており、「撰時抄」(真筆)には「漢土の三階禅師」をさして「生身仏のごとく」と日蓮大聖人は表記している。加えて「報恩抄」(身延曾存)には「玄奘・慈恩」をさして「生身の仏」といった表記もある。

これらの表記はあくまで、それらの者を尊敬してやまない者たちの評価として記されているのであり、この点においては「聖愚問答抄」の「生身の如来」との表現とも一致している。よって「聖愚問答抄」に「生身の如来」という表現があるからといって、福島氏が主張するような結論を導くことはできない。つまり、律を信じる「智人」が、忍性こと良観のことを「生身の如来」と言ったとしても、それは日蓮大聖人の御書においては一般的な用法であり、それをもって偽書とする結論はまったく出てくる余地がないのである。

◆あまりにも根拠薄弱な福島説の核心部分

さらに福島氏は、古文書の裏に書かれたいわゆる「紙背文書」である①「導空書状」②「善順書状」、同じく「紙背文書」である③「順忍書状」の影字(文書を重ねたことにより、転写されてしまった別の文書の文字)、そして④神奈川県史所収の「聖教奥書」を根拠として論を進める。

①「導空書状」について福島氏は、「導空は鎌倉浄光明寺長老の性仙導空であろう」(『同』74頁)とし、導空より極楽寺に宛てられたものであり、延慶2(1309)年前後の書状であるとしている。この①「導空書状」を根拠として福島氏は、

「極楽寺は鎌倉寺院の年貢の売却を付託されていた」(『同』75頁)

「極楽寺末寺の年貢換金の保証は、極楽寺の関管理ゆえに派生したことであった」(同)

と論を進める。それはそれで結構なことであるが、「聖愚問答抄」が真書であるならば、同抄の内容からして、それが佐渡流罪より前に書かれたものであることに異論をはさむ者はいないだろう。つまり、どう遅くみても文永8(1271)年までに書かれたものである。

ちなみに私は「聖愚問答抄」は文永5(1268)年の夏ごろ、もっと踏み込んで言えば同年7月の後半から8月前半にかけて宿屋入道に対して認められたものだと推断している。

その私の主張はさておき、文永8年を基点に考えてみると、延慶2(1309)年は38年後である。この38年後においても極楽寺は、鎌倉寺院や極楽寺末寺の年貢の売却や年貢の換金保証を行なっているということが、福島氏の紹介する古文書によって確認される。

おそらくは極楽寺の権勢は忍性のころが最盛であると思われるが、その40年近く後においても、極楽寺はその末寺のみならず、鎌倉寺院の年貢の換金を付託されている立場にあったことがわかる。

権力から換金を任されている者は当然、換金手数料をとっているわけで、そのこと自体をもってしても、極楽寺は称名寺が直接に関米を徴収していたと仮定しても、その関米の上前をはねていることに変わりはない。

次に福島氏は、同論の中において、南北朝期以降のものとして飯嶋の津の僧・善順が極楽寺に出したと思われるとする②「善順書状」を紹介している。福島氏によれば、

「和賀江津は、北条氏滅亡後も極楽寺の管理下にあり、塩・炭等の蔵があり、その管理者が善順であったろう」(『同』76頁)

ということである。福島氏は、

「極楽寺の和賀江津支配は、鎌倉寺院の年貢の売却機能を極楽寺がもち、津の支配には末寺・万福寺が和賀江津にあり、津の検断に関与していた」(同)

とも述べている。

福島氏の著書の以上2箇所を見ても、極楽寺の鎌倉における支配力が並大抵なものではなかったことが知られる。このような権勢の絶頂にあった極楽寺が、福島氏により六浦の関を管理していたとされる極楽寺の末寺・称名寺に代わって、飯嶋の津において称名寺をはさまず、関米を直接取っていたとしても、それに疑義をはさむような状況ではないように思われる。しかし、福島氏の判断は、そのような時代状況に逆行する。

◆立場が上だと升が小さい?

余談になるが、福島氏は②「善順書状」の中で飯嶋の津の僧である善順が、飯嶋の津の「内升」で2斗1升の塩が、極楽寺の升では2斗5升5合になると記していることを指摘し、「極楽寺が上位であるから」と述べている。

福島氏の言うように、飯嶋の津が極楽寺の支配下にあることについて、あえて異論はないが、「升」云々についての同氏の判断は、にわかには肯じえない。

善順と書状を受けた極楽寺の者は、極楽寺と飯嶋の津の升の大きさの差異とその比率について共通認識を持っている。ということになれば、同じ料率で極楽寺側が取り分をとった場合は、どちらの升を使っても同じであることも、両者存知のことである。普通に考えれば、むしろ塩を収める側が小さな升を使い、自分は何斗何升何合を上納したと多めの表現で言うほうが自然だろう。

また、極楽寺がその上に位置する寺に上納する場合は、たしかに小さな升を使ったほうが誤魔化しがきくが、それをもともと塩を上納している飯嶋の津の者が知っているのであれば、極楽寺の上位の寺に直訴すれば極楽寺が税の間を抜いて不正を行なっていることが容易に明らかとなる。

このように考えると、升の大きさに差異があるということは福島氏のいうような立場の上下に関係するのではないと思われる。実際に飯嶋の津において升をもって量る労働に従事している者からすれば、升がより大きいということは作業の手数が少なくて済み、手間も省けるということになる。升についてはまったくの素人であるが、福島氏の「極楽寺が上位であるから」升が小さいという短絡的結論には疑問が残る。

では、本論に戻る。

◆主張の要が影字とは……

この②「善順書状」でわかることは、南北朝期以降になっても、極楽寺が鎌倉最大の港湾施設である飯嶋の津の支配者であったということである。福島氏は延慶2年の①「導空書状」、南北朝期以降の②「善順書状」を紹介したあと、文保年間(1317~1318年)前後の紙背文書である③「順忍書状」にたまたま写った影字を自説の要として紹介する。なお、福島氏によれば、順忍は極楽寺の長老。福島氏がその古文書を活字化し、自著に紹介しているものを見れば、そこには確かに「御所法華堂」「六浦関所」という文字が確認される。

「御所法華堂頼候、□六浦関所、□□□可申含候、為□□□□□□候、委細者□□房可令申」(『同』76頁)

この文書を紹介したあと福島氏は、同文が釼阿『酉員流』紙背文書の影字であることから「称名寺の釼阿に宛てられたものと解釈される」と推測し、そのことをもって「六浦の関の管理は称名寺にあったことは動かしがたいであろう」と結論付ける。

そして福島氏は神奈川県史所収の正和2(1313)年の④聖教奥書に「六浦関屋坊」「六浦郷関屋房」と見える(ただし、この福島氏の本では、古文書の一部も紹介されていない)ことを、称名寺が六浦関を管理していたことの傍証としている。

しかし、福島氏の傍証の仕方には、古文書の考証において飛躍があると言わざるをえない。

ひとつには、③「順忍書状」の影字が、釼阿『酉員流』の紙背文書にたまたま写っていたということである。釼阿が書いた文書の裏に書かれていた③「順忍書状」にたまたま写っていた他の文書の影字について、表の文書が釼阿の書いたものだからといって、裏に写りこんでしまっている文字を「称名寺の釼阿に宛てられたものと解釈」できるのであろうか。自説を補強する史料はもっと必要であろうし、もっと直裁的にその事実を示す文書がなければ、そういった結論に至るのは難しいのではあるまいか。

④聖教奥書に「六浦関屋坊」「六浦郷関屋房」と書かれていることについても、それをもって「聖愚問答抄」の「飯嶋の津にて六浦の関米を取る」という文言を否定する史料とはいえない。単に六浦に関所があったことが類推されるにすぎない。

④聖教奥書は正和2(1313)年のものであるから、文永8(1271)年を基点とすると、その42年後のものであるし、日蓮大聖人が「聖愚問答抄」で「六浦の関米」という言葉を使われているのであるから、六浦の関所の存在を類推させる文書があったとしても「聖愚問答抄」と齟齬しない、という主張もありえるのである。

六浦に関があったとしても、極楽寺良観がその強大な支配力を背景にして六浦の関の機能を停止させ、飯嶋の津で関米を代理徴収したことすら考えられる。もっともこれは想像の域を出るものではないが、他方、福島氏の考証が私の推測を打ち破るほどの精緻さを持っていないことも確かである。

◆どこまでいっても確証がない

福島氏は、六浦における関米の徴収について、自らの考証に絶対的な自信を持っていない。それは次のような文によっても明らかである。

「称名寺が関米を取ることはあっても、極楽寺が取る可能性は低いと思われる」(『同』77頁)

それはもっともであろう。歴史学者である福島氏は、「聖愚問答抄」の真偽を判定するのに、それより40年も50年も後の、それも文意がはっきりしない影字まで動員し、「飯嶋の津」は極楽寺が関米をとり、六浦は称名寺が関米をとっているという予断を満足させようと謀ったが、一抹の不安を拭い去ることができないでいるのだ。それでいながら「聖愚問答抄」を偽書と断じ、胸を張ってみせているが、とうてい読む者を納得させるものではない。

福島氏が金沢文庫に20年間奉職していたことは前記した。福島氏はこの著書において次のように書いている。

「金沢文庫所蔵の古文書は、現状のまゝのものと、古書の紙背文書とを併せて、凡そ、一万通の多きに及ぶが、いずれも、鎌倉の末期から、足利の初期にかけてのもので、日本文化史上貴重な根本史料となっている。
ことに、鎌倉末期は、当時の記録、吾妻鏡が、文永三年の記事を最後としており、その後はよるべき史料が少ないので、この金沢文庫古文書は、つとに学界の注目するところとなり、その学術的価値を高く認められている」(『同』2頁)

そしてその詳細について、以下のように紹介している。

「『金沢文庫古文書』として刊行された七〇〇〇通近い文書は、紙背文書として伝来したもの(書状が大半)が五五〇〇点余、一紙伝来のもの(寺務文書・印信・目録等が大半)が一四〇〇点余という構成をとっている。しかも、紙背文書は、金沢北条氏一門が『群書治要』等の書籍を写したものに使用した旧金沢北条氏伝来文書群、称名寺宛ての釼阿らの称名寺伝来文書群、聖教の保持者が称名寺を最後のゆかりとしたために――例えば全海の聖教紙背文書は極楽寺での書写活動によっていたように――称名寺に伝来した文書群、および流出した文書群、の四群で構成されている」(同)

以上のように金沢文庫には、鎌倉時代末期の貴重な文書がある。しかもその中には、称名寺関係のものが多数含まれている。であるならば、称名寺が直接関米を取っていたことをもっとはっきり裏付ける文書、あるいは紙背文書が出てきてしかるべきである。

「聖愚問答抄」の推定執筆年代から約40年後の文書にたまたま写りこんだ影字を根拠として、六浦の関で称名寺が関米を直接取っていた「可能性」を論じていること自体が切ない。

◆称名寺の長老は極楽寺良観が呼び寄せ、同時に称名寺は律院に宗旨転換

六浦にある称名寺と鎌倉の極楽寺の関係を示す文永当時の史料はある。それは、この「六浦の関米について」が収録された福島氏の著書『金沢北条氏と称名寺』の中そのものに収録されている。ゆえに福島氏は次のように綴っている。

「金沢称名寺は実時の持仏堂にはじまり、文永四年(一二六八)に忍性(=極楽寺良観)の推薦を経て下野国薬師寺から審海が入寺するに及んで律を規範とする八宗兼学の寺院に転換した寺院であった」(『同』153頁)

これを読めば、極楽寺良観が称名寺の人事権を握り、宗旨を浄土宗より律にしたことが読み取れる。福島氏は次のようにも書いている。

「称名寺は西大寺末寺帳にみえ、奈良西大寺につらなる律院であった。叡尊は北条実時と密接な関係をもって鎌倉に下向し、叡尊門弟の忍性の推薦をうけて称名寺に審海が入寺した経緯をもっているのに、審海自身は西大寺結縁過去帳にはみえない」(『同』155頁)

福島氏は、称名寺が西大寺の末寺であるにもかかわらず、その長老である審海の名前が西大寺結縁過去帳に確認できないと書いている。審海は極楽寺の忍性と何らかの法縁があるのは確かであろうが、西大寺と関係があるかどうかは疑わしいという事実を示している。

ともあれ、審海が称名寺に長老として入った文永4年ころ、極楽寺は称名寺に対して大きな支配力を持っていたことがわかる。

◆権力と一体となった極楽寺の優位性は、他の学者も論及

極楽寺の特質について、福島氏は以下のような他の人の研究成果も紹介している。これを読めば極楽寺が鎌倉において絶対的な力をもち、単に関米を徴収するという域にとどまらず、流通商業に関わる公的機関として機能し、官寺として「市中行政権」を担い、非人支配もしていた機関であることが確認される。

「細川涼一氏が、『叡尊・忍性の慈善救済 ―非人救済を主軸に―』(『中央大学大学院 論究』一一-一、一九七九年)により、鎌倉極楽寺が鎌倉という直轄都市の市中行政権を担う官寺としての機能をもっていたことが指摘され、石井進氏が、『都市鎌倉における『地獄の風景』(「御家人制の研究」、一九八一年)により、極楽寺が鎌倉の非人支配の機関であり、鎌倉の流通・商業を得宗政権から付託された公的機関として機能していたことを指摘』(『同』4頁)

また極楽寺と称名寺の関係についても福島氏は次のように書いている。

「西大寺・極楽寺との関係は、極楽寺長老順忍が称名寺から西大寺叡尊の二十三念仏事料が極楽寺に納付されたことを喜び」(『同』156頁)

「称名寺の西大寺への仏事用途は、極楽寺を経由し納入されていた」(同)

「用途は極楽寺→称名寺→東国称名寺末寺という伝達ルート」(同)

「極楽寺は称名寺に対して本寺としての立場を主張し、西大寺から公認されていたことは確かであろう」(『同』157頁)

福島氏は、極楽寺と称名寺の関係について、以上のように極楽寺の絶対的優位を認識にしていた。にも関わらず、極楽寺の支配する「飯嶋の津」において「六浦の関米」を取っていたという「聖愚問答抄」の記述を否定するのである。同抄に書かれている内容が史実に反するとして同抄を偽書と断定するには、『金沢北条氏と称名寺』の第二章「三、六浦の関米について」の論述はあまりにも根拠薄弱といわざるを得ない。
最終的に福島氏の「聖愚問答抄」偽書説は暴論であると判断するものである。

よって、日蓮大聖人の宗学・宗史を学ぶ者は、このような暴論に早計に乗ることはあってはならないし、拙速にも乗ってしまった者は、その不明を恥じるべきである。

なお、「聖愚問答抄」についての私の見解は、拙著「日蓮大聖人と最蓮房」の第15章と第16章に詳述しているので是非ともお読みいただきたい。

(本文中敬称略) 2010年9月11日記す

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