(C)2012
佐渡流罪時の日蓮大聖人の御様子について、根本的に間違った印象を持っている人が多い。
絶海の孤島で、風に割れる波頭に向かい、四箇の格言を叫んでいる姿を喧伝する者も歴史上、多かった。そのような劇画的な印象で佐渡流罪時の日蓮大聖人の御姿を想像するならば、それは大いなる勘違いである。さらに、佐渡流罪中の日蓮大聖人の御様子について、半ば拘禁状態であったとするのも間違い。重書を認められてばかりいたと考えるのも事実ではない。それらは総じて誤りである。
日蓮大聖人は数え50歳の御時に佐渡流罪となった。佐渡着島は文永8年10月28日。塚原の堂に入られたのは同年11月1日、新暦の12月4日であった。佐渡の冬はすでに始っていた。旅の疲れも取れぬまま、日蓮大聖人は塚原の堂に入られた。
そこは、風のみならず雨雪も入ってしまう粗末な「一間四面」の小さな堂であった。日蓮大聖人は飢えと寒さをしのがれた。
結句は国主より御勘気二度・一度は伊豆の国・今度は佐渡の嶋なり、されば身命をつぐべきかつてもなし・形体を隠すべき藤の衣ももたず、北海の嶋に・はなたれしかば彼の国の道俗は相州の男女よりも・あだをなしき、野中に捨てられて雪にはだへをまじえ・くさをつみて命をささえたりき(「国府尼御前御書」1324頁)
日蓮大聖人の窮状は、想像を超えたものがある。島の者みなが日蓮大聖人を仇となし、野中にひとり捨てられたような御様子だった。塚原に着かれた直後には、野草を食して命をつながれた。
かかる所にしきがは打ちしき蓑うちきて夜をあかし日をくらす(「種種御振舞御書」916頁)
常人ならば絶望の淵に沈むところであろうが、日蓮大聖人の佐渡における戦いの一歩はここから始まった。日蓮大聖人はこの苦境の中で、塚原の堂に入られた11月には早くも「開目抄」の構想を練られていた。
だが、そのような日蓮大聖人を佐渡の者たちは殺そうと、虎視眈々と狙っていた。日蓮大聖人もまた、佐渡の人々の殺気を感じておられた。
此の国へ流されたる人の始終いけらるる事なし、設ひいけらるるとも・かへる事なし、又打ちころしたりとも御とがめなし、塚原と云う所に只一人ありいかにがうなりとも力つよくとも人なき処なれば集りていころせかしと云うものもありけり(「種種御振舞御書」917頁)
佐渡の島の者らは、このように隙あらば日蓮大聖人を殺めようとした。しかしながら、日蓮大聖人は佐渡国の守護代である本間重連の庇護下にあった。人々には、守護代の本間を無視して日蓮大聖人を殺すわけにはいかぬ、との考えもあったのだろう。日蓮大聖人を殺してほしいと、数百人の者が守護所に押しかけた。
六郎左衛門尉殿に申してきらずんば・はからうべしと云う、多くの義の中に・これについて守護所に数百人集りぬ、六郎左衛門尉云く上より殺しまうすまじき副状下りてあなづるべき流人にはあらず、あやまちあるならば重連が大なる失なるべし、それよりは只法門にてせめよかしと云いければ念仏者等・或は浄土の三部経・或は止観・或は真言等を小法師等が頚にかけさせ或はわきにはさませて正月十六日にあつまる(同)
本間重連は、暴徒と化そうとする島の人々に「上より殺しまうすまじき副状」があることを示し、「それよりは只法門にてせめよかし」と言ったのである。島の者らは、日蓮大聖人への悪感情ゆえに抱いていた殺意を転じ、法論で日蓮大聖人を負かそうと考えた。
文永9年正月16日、塚原の大庭で法論が行なわれた。その様子は以下の通り。
佐渡の国のみならず越後・越中・出羽・奥州・信濃等の国国より集れる法師等なれば塚原の堂の大庭・山野に数百人・六郎左衛門尉・兄弟一家さならぬもの百姓の入道等かずをしらず集りたり、念仏者は口口に悪口をなし真言師は面面に色を失ひ天台宗ぞ勝つべきよしを・ののしる、在家の者どもは聞ふる阿弥陀仏のかたきよと・ののしり・さわぎ・ひびく事・震動雷電の如し(「同」918頁)
日蓮大聖人は、これに対してしばらくはなるがままに騒がせていた。その後、
各各しづまらせ給へ・法門の御為にこそ御渡りあるらめ悪口等よしなし(同)
と制止され、本間もそれに同意し、法論が始まった。その結果は、念仏者、真言師、天台宗の者などの完敗であった。
日蓮大聖人は、その勝利の様子を次のように描写されている。
鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりも・はかなきものどもなれば只思ひやらせ給へ、利剣をもて・うりをきり大風の草をなびかすが如し(同)
塚原問答の一方的な勝利の有様がよく伝わる御文である。その場にいた者たちの中には、法論の始終を具さに見聞し、日蓮大聖人の説かれる正法正義に従おうとする者まで出た。
或は悪口し或は口を閉ぢ或は色を失ひ或は念仏ひが事なりけりと云うものもあり、或は当座に袈裟・平念珠をすてて念仏申すまじきよし誓状を立つる者もあり(同)
この塚原問答の結果、念仏者らの中より、それなりの数の者たちが日蓮大聖人に帰伏した。記されてはいないが、念仏者のみならず、他宗の者たちも同様であったことだろう。
この塚原問答が終わったあと、日蓮大聖人は本間重連に対し、次のように語りかけた。
皆人立ち帰る程に六郎左衛門尉も立ち帰る一家の者も返る、日蓮不思議一云はんと思いて六郎左衛門尉を大庭よりよび返して云くいつか鎌倉へのぼり給うべき、かれ答えて云く下人共に農せさせて七月の比と云云、日蓮云く弓箭とる者は・ををやけの御大事にあひて所領をも給わり候をこそ田畠つくるとは申せ、只今いくさのあらんずるに急ぎうちのぼり高名して所知を給らぬか、さすがに和殿原はさがみの国には名ある侍ぞかし、田舎にて田つくり・いくさに・はづれたらんは恥なるべしと申せしかば・いかにや思いけめあはててものもいはず、念仏者・持斎・在家の者どもも・なにと云う事ぞやと恠しむ(同)
自界叛逆難の予言である。
文永9年2月7日に北条家内部において得宗家に次ぐ勢力をもっていた名越家と時宗ら御内人との間で騒動が発生し、同月11日、鎌倉で名越時章・教時兄弟が時宗の討手に誅殺された。同月18日にその急報を告げる船が佐渡に到着した。急使の伝える内容は、日蓮大聖人の予言どおりであった。この時、本間重連が日蓮大聖人に対し、
たすけさせ給へ、去る正月十六日の御言いかにやと此程疑い申しつるに・いくほどなく三十日が内にあひ候いぬ、又蒙古国も一定渡り候いなん、念仏無間地獄も一定にてぞ候はんずらん永く念仏申し候まじ(「同」919頁)
と祈請したことはよく知られるところである。なお、鎌倉より京都の六波羅探題に急報が告げられ、時宗の異母兄である時輔も戦死した。これら一連の内乱を「二月騒動」と呼ぶ。
さて、先の正月16日の塚原問答以降は、佐渡において日蓮大聖人に帰伏する者が、相当な数に上ったことだろう。
これまで何度か書いているように、日蓮大聖人の塚原における「預りたる名主」と考えられる阿仏房は、塚原問答よりさかのぼること、およそ2カ月前には、日蓮大聖人に帰依していたと思われる。阿仏房の帰依と献身的な奉仕がなければ、塚原到着後、時を経ずして日蓮大聖人の命は潰えていた。日蓮大聖人が命を永らえたのは、夜中に櫃を背負って訪れるなどした阿仏房夫妻の功による。
それはさておき、2月の初め、日蓮大聖人のもとに有力な弟子が駆けつける。それは、天台宗の僧・最蓮房に身をやつした日興上人である。最蓮房が日興上人であることについては、拙著『日蓮大聖人と最蓮房 師弟不二の契約』(平安出版)に詳述している。
最蓮房が日興上人であることは、種々の根拠を挙げることができるが、以下にその一部を紹介する。
「最蓮房御返事」によれば、
御状に云く去る二月の始より御弟子となり帰伏仕り候上は・自今以後は人数ならず候とも御弟子の一分と思し食され候はば恐悦に相存ず可く候云云(「最蓮房御返事」1340頁)
となっている。しかし、同じ文永9年2月に日蓮大聖人より最蓮房に下された「生死一大事血脈抄」「草木成仏口決」の内容は、佐渡で2月に会ったばかりの弟子に教える法門とは、とうてい考えられないものである。また文言としても、
日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとするに・還つて日蓮を種種の難に合せ結句此の島まで流罪す、而るに貴辺・日蓮に随順し又難に値い給う事・心中思い遣られて痛しく候ぞ(「生死一大事血脈抄」1337頁)
と、最蓮房がもとよりの弟子で、佐渡流罪に「随順」した者であることが明記されている。
加えて日蓮大聖人は、最蓮房の信心について、次のように認められている。
金は大火にも焼けず大水にも漂わず朽ちず・鉄は水火共に堪えず・賢人は金の如く愚人は鉄の如し・貴辺豈真金に非ずや・法華経の金を持つ故か(同)
日蓮大聖人は、最蓮房こと日興上人の信心が、このたびの「数数見擯出」という大難に「随順」したことにより、「真金」であることが証明されたと述べられている。ここでさらに括目すべきは「法華経の金を持つ故か」という表現である。最蓮房は、この年の2月に日蓮大聖人に会い奉り初めて「金」を授けられたのではなく、これまで「金を持っ」てきた帰結として「真金」と見られているのである。「法華経の金を持つ」行者は、それゆえに「真金」なのである。
さらに日蓮大聖人は、最蓮房との師弟関係が三世に及ぶものであることを宣明されている。
過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか・釈迦多宝こそ御存知候らめ、「在在諸仏土常与師倶生」よも虚事候はじ(「同」1338頁)
その師弟の絆のゆえに、同年4月、日蓮大聖人は最蓮房に「妙法の本円戒」を授けられている。
卯月八日・夜半・寅の時に妙法の本円戒を以て受職潅頂せしめ奉る者なり(「最蓮房御返事」1342頁)
この「妙法の本円戒」について記している日蓮大聖人の弟子は、日興上人以外には一人もいない。「富士一跡門徒存知事」には次のように記されている。
一、五人一同に云く、聖人の法門は天台宗なり仍つて比叡山に於て出家授戒し畢んぬ。
日興が云く、彼の比叡山の戒は是は迹門なり像法所持の戒なり、日蓮聖人の受戒は法華本門の戒なり今末法所持の正戒なり(「富士一跡門徒存知事」1602頁)
日蓮大聖人の五老僧である日昭、日朗、日向、日頂、日持は、比叡山において「授戒」したと述べている。五老僧は、日蓮大聖人から「法華本門の戒」「末法所持の正戒」を受けたこともなければ、その戒が存在することすら知らなかったと思われる。
この「富士一跡門徒存知事」に記された「戒」が、最蓮房に「受職灌頂」された「妙法の本円戒」と同義であることは疑いない。
となれば、佐渡において日蓮大聖人より「受職潅頂」された者は、日興上人である。すべては佐渡において決していたのだ。
さらに「最蓮房御返事」の冒頭に、
都よりの種種の物慥かに給び候い畢んぬ(「最蓮房御返事」1340頁)
と記されていることをもって、最蓮房が京より流罪になった僧であるとする者がいる。この御書の末尾には、次のように認められている。
余りにうれしく候へば契約一つ申し候はん、貴辺の御勘気疾疾許させ給いて都へ御上り候はば・日蓮も鎌倉殿は・ゆるさじとの給ひ候とも諸天等に申して鎌倉に帰り京都へ音信申す可く候、又日蓮先立つてゆり候いて鎌倉へ帰り候はば貴辺をも天に申して古京へ帰し奉る可く候(「同」1343頁)
この文の本意を探れば、確かに帰る場所は「都」「京都」と「鎌倉」とに書き分けられているが、その立て分けは最後の「古京」という言葉によって一つのものとして集約される。「古京」は「故郷」である。師弟が共に「古京」(故郷)たる鎌倉に生還しようと言われていることがわかる。
この御書を分析すれば、日興上人が京より来た僧・最蓮房に偽変し、文永9年2月に日蓮大聖人の弟子になったこととし、佐渡において活動していたことがうかがわれる。
なお、最蓮房がいただいた御書の中に天台に関わる法門があるので、最蓮房を天台宗の僧だとする者もいる。日興上人は駿河の富士川西岸にあった天台系寺院・四十九院の僧である。天台の法義に通暁している。
日蓮大聖人は文永8年10月10日、依智を出立した。その前に、佐渡で常随給仕することになる日興上人に対し、細目の指示があったことは疑いない。
流罪先の佐渡において重要法門を明かされることは、依智出立の前からの既定方針であった。流罪の地・佐渡で明らかにされる重要法門は、当時の弟子のみならず、日蓮大聖人滅後の弟子たちに対して書き残されたものである。
最蓮房こと日興上人は「二月の始より御弟子となり帰伏仕り候」とあるから、文永9年2月の始めに佐渡に着いた。それに前後して、日蓮大聖人が重要法門を記すにあたり不可欠の経論釈が、佐渡に到着している。そのことは、同月に認められた「開目抄」に引用された経論釈により裏づけられる。
日蓮大聖人は「種種御振舞御書」の文の流れからみれば、おそらくは正月16日に行なわれた塚原問答の直後から、前年11月より構想を練られていた「開目抄」の執筆に入られたと思われる。
さて皆帰りしかば去年の十一月より勘えたる開目抄と申す文二巻造りたり、頚切るるならば日蓮が不思議とどめんと思いて勘えたり(「種種御振舞御書」919頁)
塚原問答の勝利、最蓮房こと日興上人の後衛としての一大貢献がなければ、この時「開目抄」を完成させることは不可能であっただろう。
参考までに「開目抄」に引用された経論釈の一覧を以下に表記する。
法華経十巻
【天台】摩訶止観、法華玄義、法華文句
【妙楽】止観輔行伝弘決、法華文句記、五百問論
【伝教】守護国界抄、顕戒論、法華秀句
【その他(順不同)】大般涅槃経、大方広仏華厳経、大集経、維摩経、方等陀羅尼経、大品般若経、首楞厳三昧経、浄名経(維摩経)、旧訳華厳経、増一阿含経、大集経、大日経、仁王経、法滅尽経、密厳経、大雲経、六波羅蜜経、解深密経、中辺義鏡残、天台法華疏義纉、摩迦摩耶経、大悲経、浄名経、阿含経、列子仲尼編、大乗四論玄義、大智度論、秘蔵宝鑰、法華玄論、法苑林、法華玄賛要集、十住毘婆沙論、正法華経勧説品、添品法華経、付法蔵経、安楽集、一乗要決、心地観経、金光明経、般泥洹経、選択集
大変な分量の経論釈である。
要文の抜書きがあったとしても、相当量の経論釈及び外典が日蓮大聖人の手許にあった。言うまでもないことだが、「開目抄」に引用されていない経論釈及び外典もあるわけだから、塚原における日蓮大聖人の蔵書は、早くも膨大な量であったことがうかがえる。
ところで、先に引用した御書には、塚原の堂が「一間四面」(「妙法比丘尼御返事」1413頁)であったと明記されている。「一間」とは、今でいうような約180cmといった定まったものではなく、立てられた柱と柱の間を称して「一間」という。それにしても、これだけの分量の経論釈を、日蓮大聖人はどこに収められ、どのようにして見られて「開目抄」を認められたのであろうか。
塚原の堂は「一間四面」の広さしかなく、雨風にもさらされるから、そこでの保管は不可能。そうなると、「預りたる名主」と考えられる阿仏房の宅に大量の経論釈が運び込まれていたとするのが自然である。阿仏房が塚原における「預りたる名主」であることのみが、すべての出来事に合理性を与える。御書を基にした地理的考察、そして大量の経論釈を保管しえる場所、そして日蓮大聖人の重書の執筆を可能とする場所の確保などなどを考えると、そこに浮かぶ佐渡の地における最大の支援者は、阿仏房をおいて他にはいない。
塚原の堂は、日蓮大聖人が入られた当初、「地頭・地頭・念仏者・念仏者等」(「千日尼御前御返事」1313頁)に見張られ、自由に出入りすることはできなかった。日蓮大聖人は流人であるが、このような見張りが立っての拘禁状況は、流人の生活としては本来あるまじきことである。
元来、流人は島内から出ない範囲であれば、行動の自由があった。それが流刑というものである。奈良平安の律令時代の定めでは、流人には「上」より1日あたり米1升、塩1勺が与えられたと『故事類苑』に記されている。
1日あたりに与えられる米1升、塩1勺を食生活の基礎的な支えと考えれば、この規定どおりの支給がなされれば、5、6人の生活はできる。したがって、流人は侍者を伴って流罪先に赴くことが前提とされていたといえる。
しかし、武家社会となった鎌倉時代においては、この決まり事は厳密には守られていなかったようだ。実際、日蓮大聖人もそのことを記されている。
預りより・あづかる食は少し付ける弟子は多くありしに・僅の飯の二口三口ありしを或はおしきに分け或は手に入て食しに・宅主・内内・心あつて外には・をそるる様なれども・内には不便げにありし事・何の世にかわすれん(「一谷入道御書」1329頁)
日蓮大聖人は「預り」より渡される食糧が少なかったと記されている。このことは、裏を返せば、流人である日蓮大聖人に、定めの量を満たすものではなかったが、上より食糧が支給されていたことを示している。
先述したように、本間重連も「上」の沙汰として、日蓮大聖人の命を守ろうとした。佐渡における日蓮大聖人の扱いは、流人としての最低限の保護の範疇にあったことは否めない。
一谷から中興入道の居宅までは、直線距離で約3キロメートル。現在は新潟県佐渡地域振興局の農政庁舎になっている。
中興入道やその家人並びに下人について、日蓮大聖人は次のように記されている。
島にて・あだむ者は多かりしかども中興の次郎入道と申せし老人ありき、彼の人は年ふりたる上心かしこく身もたのしくて国の人にも人と・をもはれたりし人の・此の御房は・ゆへある人にやと申しけるかのゆへに・子息等もいたうもにくまず、其の已下の者ども・たいし彼等の人人の下人にてありしかば内内あやまつ事もなく唯上の御計いのままにて・ありし程に(「中興入道消息」1333頁)
この「中興入道消息」によってうかがえることは、日蓮大聖人が中興入道の家人や出入りする人々、そしてその人柄まで知っておられたということである。日蓮大聖人が一谷当時、中興入道宅をたびたび訪ねておられたことがわかる。
日蓮大聖人は、このような流人生活を送られながら、文永9年2月からは「開目抄」などの重書を次つぎと著された。代表的なものは次のとおりである。
「開目抄」(文永9年2月)、「佐渡御書」(同3月)、「真言見聞」(同7月)、「観心本尊抄」(同10年4月)、「諸法実相抄」(同5月)、「如説修行抄」(同)、「顕仏未来記」(同)、「当体義抄」(同年)
また弟子檀那の退転を阻むために、鎌倉や下総などの旧来の信者に対し文をもって激励された。日蓮大聖人は佐渡という不便な地ゆえに、弟子に頼み事もされている。日蓮大聖人は自らの執筆のための典籍の調達を依頼されることもあったのだ。
佐渡の国は紙候はぬ上面面に申せば煩あり一人ももるれば恨ありぬべし此文を心ざしあらん人人は寄合て御覧じ料簡候て心なぐさませ給へ、世間にまさる歎きだにも出来すれば劣る歎きは物ならず当時の軍に死する人人実不実は置く幾か悲しかるらん、いざはの入道さかべの入道いかになりぬらんかはのべ山城得行寺殿等の事いかにと書付て給べし、外典書の貞観政要すべて外典の物語八宗の相伝等此等がなくしては消息もかかれ候はぬにかまへてかまへて給候べし(「佐渡御書」961頁)
日蓮大聖人は、塚原、一谷をとおして重書を認められた。その重書は、末法の民衆救済、とりわけ日蓮大聖人滅後の弟子のためのものであった。
その重書の執筆と並行して、島内全域にわたる大折伏を敢行された。その佐渡の状況は、
此の佐渡の国は畜生の如くなり又法然が弟子充満せり(「呵責謗法滅罪抄」1132頁)
といったものであった。四面に敵を迎える状況の中でも民衆救済のための戦いの手を緩められることはなかった。
日蓮大聖人は重書の執筆をされる一方で、大折伏を敢行された。その佐渡の島内における布教の要となったのが、最蓮房こと日興上人であった。
島内の折伏の教線が広がるにつれて、他宗の者たちは悲鳴をあげた。布施が集まらなくなって、飢えてしまうと哀訴している。
念仏者集りて僉議す、かうてあらんには我等かつえしぬべし・いかにもして此の法師を失はばや、既に国の者も大体つきぬ・いかんがせん(「種種御振舞御書」920頁)
なんと、佐渡の国の多くの者が、日蓮大聖人に帰依、あるいは心を寄せてしまったのだ。その対抗手段として、島の邪師らは鎌倉に走る。
念仏者の長者の唯阿弥陀仏・持斎の長者の性諭房・良観が弟子の道観等・鎌倉に走り登りて武蔵守殿に申す(同)
「武蔵守殿」とは、佐渡国の守護である大仏(北条)宣時である。宣時は、北条政子の兄弟である北条時房の孫で、後に第9代執権・貞時のもと連署を務める。またその子・宗宣は第11代の執権となった。
鎌倉に走った邪師らの行いは、まさに讒訴である。
此の御房・島に候ものならば堂塔一宇も候べからず僧一人も候まじ、阿弥陀仏をば或は火に入れ或は河にながす、夜もひるも高き山に登りて日月に向つて大音声を放つて上を呪咀し奉る、其の音声・一国に聞ふと申す(同)
これを真に受けた佐渡国守護の大仏(北条)宣時は、執権である北条時宗に裁断を仰ぐことなく、佐渡における日蓮大聖人の一門を弾圧せよ、との御教書を下した。この御教書は3回出された。いわゆる「虚御教書」である。その弾圧の有様は凄惨であった。
或は其の前をとをれりと云うて・ろうに入れ或は其の御房に物をまいらせけりと云うて国をおひ或は妻子をとる(同)
このような苛烈な弾圧が、日蓮大聖人流刑中のおよそ2年半の間に、「虚御教書」にもとづき、波状的に三度も行なわれた。これは、日蓮大聖人と日興上人が島内に展開していた折伏が、どのような弾圧があっても一歩も退かないものであったことを示している。
念を押すようであるが、最蓮房こと日興上人が折伏の中心者であったことを御書を拝しながら記しておきたい。
以下に「祈祷経送状」を紹介する。
この「祈祷経送状」については、私は文永11年正月28日に御述作されたものと考察する。「法華行者値難事」(文永11年正月、965頁)と対とみなすべき御書である。
御山篭の御志しの事、凡そ末法折伏の行に背くと雖も病者にて御座候上・天下の災・国土の難・強盛に候はん時・我が身につみ知り候はざらんより外は・いかに申し候とも・国主信ぜられまじく候へば・日蓮尚篭居の志候(「祈祷経送状」1356頁)
文中に見られる「病者」とは、法華経誹謗の国主のこと。この時点では、日蓮大聖人は「御教書」が執権時宗の裁可を得て、佐渡の守護・大仏(北条)宣時により発せられたものと理解されていたようだ。
ともあれ、苛烈な弾圧を回避するために連絡を絶ち、布教活動も停止することを、日蓮大聖人は最蓮房こと日興上人に命じている。
相構え相構え向後も夫妻等の寄来とも遠離して一身に障礙無く国中の謗法をせめて釈尊の化儀を資け奉る可き者なり(「同」1357頁)
この「夫妻」とは阿仏房夫妻であろう。最蓮房こと日興上人に、阿仏房夫妻と会ってはならないと厳命されている。
阿仏房は、日蓮大聖人が塚原に入られて間もなく帰伏したと推断される。いわば阿仏房は、佐渡の教法流布の一粒種であった。その阿仏房が帰依した後、間もなくして阿仏房と仲のよかった国府入道が帰依したと思われる。国府入道も阿仏房などと共に、文永8年から同9年にかけての一冬、命がけで日蓮大聖人に食を送った。
尼ごぜん並びに入道殿は彼の国に有る時は人めを・をそれて夜中に食ををくり、或る時は国のせめをも・はばからず身にも・かわらんと・せし人人なり(「国府尼御前御書」1325頁)
このようにして佐渡の布教の中核の人が育ち、塚原問答を経て、最蓮房こと日興上人の着島もあり、教線は全島に展開したと思われる。その間、布教の中心となったのは、当然、日蓮大聖人のいらした塚原であり一谷であるが、有力な拠点として阿仏房宅が使われたことは、先に書いたとおりである。
なお、阿仏房宅が佐渡布教の拠点であったことは、阿仏房の死後、弘安3年7月2日に日蓮大聖人が千日尼宛に認められたお手紙によっても確認される。
追伸、絹の染袈裟一つまいらせ候、豊後房に申し候べし・既に法門・日本国にひろまりて候、北陸道をば豊後房なびくべきに学生ならでは叶うべからず・九月十五日已前に・いそぎいそぎまいるべし、こう入道殿の尼ごぜんの事なげき入つて候、又こいしこいしと申しつたへさせ給へ、かずの聖教をば日記のごとくたんば房にいそぎいそぎつかわすべし、山伏房をばこれより申すにしたがいてこれへは・わたすべし、山伏の現にあだまれ候事悦び入つて候(「千日尼御返事」1318頁)
千日尼に「絹の染袈裟」が送られている。
豊後房に対して「すでに日本国にこの法門は弘まった。北陸道は豊後房が弘めていくべきであるが、教学を身につけていなければ、それもできない。急いで身延に来なさい」との伝言を千日尼に頼まれている。
国府入道の妻のことについては、日蓮大聖人の悲しみの気持ちを伝えてくださいと頼まれている。
また、たんば房には、多くの聖教を指示の通りに持たせて、身延に来させるように千日尼に言われている。
山伏房はこれから言うとおりの方法で身延に来させるように言われている。おそらくは法のゆえであろうが、何らかの理由で山伏房があだまれていることを喜んでいらっしゃる。
この御書の内容からみれば、千日尼は在家の激励はもちろんのこと、出家の者たちへの指示や頼み事を、日蓮大聖人からいくつも受けていることがわかる。千日尼は島内を布教で動いている出家と日蓮大聖人の連絡役をも担っていた。
にわかにそのようなことができるものではない。阿仏房の生前から、千日尼はずっとそうであったと考えるべきだ。
もっと突きつめて考えれば、塚原問答以降の佐渡の布教の要として阿仏房夫妻が存在し、その拠点として阿仏房宅が機能していたことがうかがわれるのである。
『日興上人御本尊集』(日興上人御本尊集編纂委員会 1996年刊)を見ることにより、日興上人が佐渡の信者に対し、多くの御本尊を認められていたことを確認することができる。現在、佐渡の寺にあるものが33体。授与者が佐渡の人であることが確認されている御本尊で、島外にあるものが3体。合計36体。それらの日興上人御筆の御本尊は日蓮大聖人滅後18年から50年にかけて授与されている。
日蓮大聖人御自筆の「宝塔曼荼羅」は現在11体確認されているが、一般に「佐渡百幅」と称されている。同じ様な比率で現在伝えられているものが10分の1程度と推定すれば、佐渡の人々に授与された日興上人御筆の御本尊は300体を超えるものであったことがうかがわれる。
日興上人が佐渡の人々に対し、自ら御本尊を認め授与された中で、興味を引くものが二つある。これらの御本尊は『富士宗学要集第8巻』、そしてこの『日興上人御本尊集』によって確認される。
一つは日蓮大聖人の佐渡赦免より40年後に授けられた「佐渡国一谷入道孫心□寺佛也」(著者註 □は欠字)の脇書が認められた御本尊である。日蓮大聖人は一谷入道が法華経に帰さないことを気にかけられていたが、その孫は日興上人から御本尊を賜るまでの信心を貫いていたことが確認される。
加えて、私の気を引いてやまないのは、この一谷入道の孫に授与された御本尊と同時期に日興上人が認められた「盲者龜石房」宛の御本尊である。目の見えない人に日興上人が御本尊を授与されている。このことは、日興上人が佐渡在島時からその人物のことを知っておられたか、或いは佐渡の布教にあたっていた僧俗の指導者たちより、その者の信心の状況についての細かな報告を継続的に受けられていたことを示している。
日興上人は、日蓮大聖人の佐渡流罪赦免後、再び佐渡の地を踏まれることはなかったが、同島の教線について、具にそれを掌握されていたことがうかがえる。
『日蓮聖人真蹟集成 第十巻 本尊集』(法蔵館 1977年刊)の「第一二」(佐渡妙宣寺蔵)の御本尊の右下には、日興上人の添書が認められている。
佐渡國法華東梁阿仏房彦如寂房日満相伝之
この御本尊の存在により、阿仏房の一途な信心が「彦」(孫またはひ孫)である日満に引き継がれていたことがわかる。
しかも日蓮大聖人の真筆の御本尊に、日興上人が阿仏房について「佐渡國法華東梁」とわざわざ添書きをして与えられているということは、極めて重要である。この添書は、生前、阿仏房が佐渡の国における「東梁」すなわち布教の中心者であったことを証する。
阿仏房が、日蓮大聖人流罪時より佐渡布教の中心者として活躍したことを、佐渡流罪に「随順」した日興上人はもっともよく知っていた。
(本稿終わり 本文中敬称略 2011年2月1日記す)