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偽書「不動・愛染感見記」を真書とする主張に対する反論

 

『法華仏教研究』第14号(法華仏教研究会発行)に、川﨑弘志氏の「『不動・愛染感見記』考」(以下、「川﨑文」という)が掲載された。その「川﨑文」に拙著『日蓮大聖人と最蓮房』において私が国の重要文化財である「不動・愛染感見記」(上の写真参照)が偽書であると記したことについての反論が記されている。

 

しかしながら「川﨑文」は私の主張するところを割愛し論を進めている。私は法義に照らして「不動・愛染感見記」が偽書であることを『日蓮大聖人と最蓮房』上巻の430頁から443頁まで詳述している。その内容は概ね次のようなものである。

 

①  立宗後の「建長六年六月廿五日」に日蓮大聖人が「大日如来」より「廿三代嫡々相承」と記されることはありえない。この主張の裏づけとして日蓮大聖人が法華経こそ民衆救済の法であると16歳のときに「自解仏乗」されたこと(94頁~130頁)、そしてその御境涯から主に畿内に「修学」されたこと(318頁~353頁)などについても触れている。

②  立宗において「南無妙法蓮華経」と唱えることが成仏の直道とされているのに、法華以前の権教にあらわされた権仏である大日如来より「相承」を受けたなどということはありえようはずがない。

③  大日如来よりの「相承」は、次のような御書に照らしてありえないと文証をもって示した。

「大日如来の説法と云はば大日如来の父母と生ぜし所と死せし所を委く沙汰し問うべし、一句一偈も大日の父母なし説所なし生死の所なし有名無実の大日如来なり」(諸宗問答抄 『日蓮大聖人御書全集』381頁)

「大日如来は何なる人を父母として何なる国に出で大日経を説き給けるやらん」」(祈祷抄『同』1355頁)

「善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等の三三蔵は一切の真言師の申すは大日如来より五代・六代の人人・即身成仏の根本なり等云云、日蓮勘えて云く法偸の元祖なり・盗人の根本なり」(神国王御書 『同』1523頁)

④  三身相即の円教の立場に立たれている日蓮大聖人が、権仏・虚仏の法身仏である大日如来から「嫡々相承」を受けることはない。

そのうえで法義だけでは納得しない者がいるかもしれないと考え、「不動・愛染感見記」に書かれている「正月一日 日蝕の時」という事実があったかどうかを、『日本・朝鮮・中国 日食月食宝典』(雄山閣)で照合した。そしてそのような事実がないことを確認した。その記述は444頁から445頁になされている。

446頁より453頁にかけては「不動・愛染感見記」と御真蹟との比較対照をしている。

 

加えて454頁から456頁にかけて「不動・愛染感見記」に「日蓮授新佛」と記されていることを指摘し、それが日蓮大聖人の教法に反するものであることを指摘している。すなわちこの「不動・愛染感見記」によれば、日蓮大聖人が大日如来より「嫡々相承」された“秘密法門”を「新佛」なる者に譲ったことになるのだが、日蓮大聖人の御書にも史実にも「新佛」なる者を確認しえないどころか、日蓮大聖人の「法華経題目抄」によれば提婆達多が釈迦仏を殺し新仏になろうとしたと記されており、日蓮大聖人が弟子に「新佛」などという名称をつけられることはないことも記した。

 

ところが「川﨑文」は、私の法義に関する主張を正確に掲載しないうえに、

「立宗に関する法義にかかわることなのでここでは検証から除外する」

との姿勢を取る。

そうして私が日蓮大聖人の御真蹟と「不動・愛染感見記」との筆跡照合をしたことをもって次のように記している。

「近年、『北林本』のように真蹟写真の画像処理をして字体を比較し、議論している論文をたまに見かける。ただ似ている似ていないだけでは不十分であることを論文執筆者が理解しているか疑問視するような論考もある。少なくとも『似ているから同一人物』というロジックならまだしも、『似ていないから別人』というのはそれだけでは早計である。その場合はもっと別の観点からのアプローチが必要で『北林本』のように偽書と決めつけてかかるのは軽率の謗りを免れない」(『法華仏教研究』第14号109頁)

ところで「川﨑文」は正しい筆跡鑑定の有り方について次のように述べている。

「松本佐一郎が指導を仰いだ警視庁鑑識課町田技師の筆跡鑑定についての解説が町田欣一・今村義正『全書 捜査・鑑識の科学 第3巻 文書・心理鑑識』(昭和三十五年、日本評論新社)に記載されているので、ここから少し参考となることを拾っておこう。

『筆跡鑑定を行なう場合、二〇歳代の者の筆跡を検査する対照資料としては、同時期の筆跡、少なくとも一年以内の筆跡を対照資料としなければならない。三〇歳を過ぎた者やさらに高齢者の者の場合においても、同時期の筆跡を対照資料にすることが望ましいが、二〇歳代の時ほどは変化がないから、二、三年前の筆跡でも対照資料とすることができる』(一二頁)」(『同』105頁)

よって私が「不動・愛染感見記」に書かれた「身」「拝」「見」の3文字について、日蓮大聖人の御生涯にわたる御真蹟から同文字を抽出し照合した方法は間違いであると川﨑氏は指摘する。

私はそうは思わない。

近年、筆跡鑑定の方法は、コンピュータなども用いられるようになり、鑑定方法は多岐にわたり進んでいる。その研究の加速を要求しているのは、本人自署を重要視する経済活動などである。しかし、どのような鑑定方法をとるにしても、データは多いほうがよい。

したがって「川﨑文」が引用する53年前の警視庁鑑識課技師の方法論が充分であるとは思わない。しかし「川﨑文」が重宝とする警視庁鑑識課技師の方法論をもってしても、「不動・愛染感見記」は、やはり偽書との結論を導き出さざるをえない。

「川﨑文」の指摘するところに従えば、日蓮大聖人が「不動・愛染感見記」の書かれたとされる建長6年に近接して書かれた日蓮大聖人の文字と比較することが最善の方法である。もっとも近接した確かな筆は、建長3年11月24日(30歳)に書写された「五輪九字明秘密義釈」(中山法華経寺蔵)ということになる。この日蓮大聖人直筆の写本より、上記3文字を抽出し、「北林芳典Web Site」に掲載している。掲載された「身」の文字は121文字、同様に「拝」1文字、「見」32文字であった。念を押すようだが、この3文字を「五輪九字明秘密義釈」より抽出する作業は『日蓮大聖人と最蓮房』を刊行した際にすでに行ない、その全画像データを当時は報恩社のホームページに、現在は私のウェブサイトに掲載している。

川﨑氏が持論に沿うのであるならば、もっとも「不動・愛染感見記」に近接したそれらの文字との比較検証することを怠るべきではなかった。それらの文字を見れば「不動・愛染感見記」の文字が日蓮大聖人のものでないことは歴然としてわかったはずである。

加えて、日蓮大聖人が17歳のときに書写された「授決圓多羅義集唐決上」(金沢文庫蔵)から、「身」33文字、「見」21文字を抽出している(「拝」の文字はなし)。これらの文字を見れば、日蓮大聖人は10代より能筆であったことが判然とする。17歳のときにこのような文字を書く人が建長6年、すなわち33歳に至っていきなりその時だけ下手なクセ字を書く主となると誰が考えるであろうか。建長3年に書写された「五輪九字明秘密義釈」と併せて真摯に比較すれば、日蓮大聖人の文字に年齢にともなう変化があったとしても、「不動・愛染感見記」が異筆であることはすぐさまわかったはずだ。

 

それにつけても私が疑問に思うのは、川﨑氏が前掲したように警視庁鑑識課の町田氏の文をもって、正しい文字鑑定の方法と認識していたのであるならば、日蓮大聖人が書写された「五輪九字明秘密義釈」の文字と単純に比較すれば済むことであった。そうすれば「五輪九字明秘密義釈」と「不動・愛染感見記」の文字が異筆であることは明らかとなった。ちなみに「五輪九字明秘密義釈」の「身」の字は121文字であるのだから、データ的にも不足はなかったはずである。

私の立論をやり込めてやろうという思いではなく、ひたむきに真実を求めようとするならば自ら最善と主張する方法により、真実ににじり寄る検証作業を行なうことが正当である。その点において論者の、筆を執る目的性が奈辺にあるのかを考えざるをえない。

 

また「川﨑文」は、私が『日本・朝鮮・中国 日食月食宝典』(雄山閣)を根拠に「愛染感見記」に記された「建長六年」の「正月一日」には「日蝕」がなかったとしたことについても、逆に同書を根拠にその「正月一日」に起こったとされる「日蝕」は、「建長元年四月一日」に和歌山県あたりで確認しえた皆既日食のことであり、日蓮大聖人はこの建長元年に高野山において皆既日食を見られ、その原体験を基に「愛染感見記」を記されたとする。なお、「正月一日」は日蓮大聖人の日付の「誤記」の可能性を指摘する。

この主張については、その矛盾点を剔抉し論を詳細に展開する意欲が涌いてこない。「川﨑文」がどう主張したとしても、「建長六年六月廿五日」付の「愛染感見記」「不動感見記」にそれぞれ「生身愛染明王拜見 正月一日 日蝕之時 自大日如來至日蓮廿三代嫡々相承」「生身不動明王拜見 自十五日至十七日 自大日如來至于日蓮廿三代嫡々相承」と書かれている日付が建長6年以外の年の月日であると読むことには無理がある。

 

なお、「川﨑文」は「愛染感見記」に書かれた車輪の外縁部に書かれた模様が、日蝕時に見られるプロミネンス(筆者注:〈紅炎〉通常は目視することができないが、皆既日食の際、条件によっては太陽の縁から立ち昇る炎が確認される)であるとし、日蓮大聖人が建長元年に高野山において皆既日食を見られたときの記憶に基づいて、「愛染感見記」の絵が書かれたものであると主張する。その正否についての判断は読者に委ねる。

 

(平成25年1月4日夕刻、友人が「川﨑文」をファックスしてくれたことにより、私の著書に関する批判がされていることを知った。1月5日は反論をすべきかどうか思案した。1月6日、本稿を書き終えた)

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